コロナ禍一過 その後に向けて2

さて、ここからは
個人的な未来予測の妄想です。

コロナ禍の自粛などにより
在宅勤務(授業)とか
働き方改革によって
労働時間短縮などが推進されています。

これらによって
「やる」が一挙に切りそがれた感があります。

確かに労働時間が短縮されて
生み出す価値の量とか質が変化しなければ
もしくは、向上するのなら
生産性向上
ということになって万々歳なのでしょう。

しかし!
です。

これに対応するためには
それなりのリソースが必要となります。

能力やらノウハウやら
それらがあって達成できること。

もちろん精神力も欠かせませんし
ついでに言うなら人間力が最重要。

そして
今の学生達の世代が求める労働環境は…

クリーンでクリアでホワイトな会社で
言われたことをできる範囲でやれば良い
そんな感じでしょう。

そのイメージから外れると
「自分は向いていない」
とか
「ブラックだ!」
ということになるのかな。

まぁ、彼らの育ってきた環境から考えれば
無理もないことだと思います。

で、結果としては…
大きく二極化する
と見ています。
これはもう、色んな意味で。
多分避けられないでしょう。

その土台はできあがりつつある。

正解が分からないと動けないとか
リスクは取れないとか

自分で考えるのも、行動するのも
リスクを伴うし、面倒

キツイ仕事は嫌で
他から意にそぐわない指示が来るのも嫌で
間違いは許せない

そういったものを回避するために
学歴や資格でなんとかしようとする

と、かなり極端な状態を上げてみましたが
傾向としてはそんな感じになると見ています。

そうなるとたぶん、興味深いことが起きます。

人間による非効率で確実性の低い業務指示より
効率的で確度の高いAIによる業務指示によって
仕事をする方が良い

ってことになりそうではありませんか?

だって、その方が絶対に楽ですから。

これによって「指示待ち」が強化されて…

SF映画でありがちな
コンピューターに人間が従う世界
が実現しますね。

しかも
人が自ら望んでそういう状態になる
という皮肉。

ただしこれは、皆が全て
ということではなく
マジョリティの話。

ここまでが私の妄想です。

この妄想とは真逆な価値観を持った者も現れます。
というか必要です。

そういった価値観が構築ができるのは
せいぜい20代の半ばまでかな
と思っています。
人によっては、それでは遅すぎるくらい。

残念なことに、それ以降では
考え方や、やり方を大きく変えるのは難しいでしょう。

不可能ではないかもしれませんが
若い頃に比べれば、かなり苦労すると思いますし
そもそも変えようなんて思わなくなる可能性が大きい。

大きな価値を生み出すゴールを設定したら
長時間、タフな仕事をする
という手段を選択する必要があるかもしれません。

それをやりたいと思っても
下地が無いと難しい。

好きなことに夢中になって
限界までプッシュできる

そういう資質を持つ者は
いつの世も必要とされます。

これは「思い」とか「考え方」の問題であって
知識とか知能とかの問題ではないのが
難しくも面白いところ。

その準備をしておくのが
夢工房の使命だと思っています。

コロナ禍一過 その後に向けて

2020年から猛威を振るったコロナ禍ですが
もうほとんど気にせずに日常生活が送れるようになっています。

コロナが盛り上がっていた頃は
日常が戻るのはいつなのか?
とか
果たして戻ることはあるのか?
なんて考えたこともあるでしょう。

果たしてその後の世にどのような影響が残ったかというのは
現状ですでに分かっていることもあれば
時が経たなければ評価できないこともあるでしょう
けど、私は評論家ではないのでその辺はあまり興味がなくて…

今、考えるべきは
この先どうなる可能性があるか

そのための予想を立てて
早期に行動に移す
です。

仮に読みが外れても
別に損はしないと思っているので
早めに動くのが重要。

さてさて

我が国日本は
「一億総中流」のような社会を実現してきてきて
見方によっては、それは結構快適で
夢のような社会だったわけですが…

恐らくこの辺でゲームオーバーでしょう。

そんなことは、皆さん薄々気付いている
というか、確信していることでしょう。

もう今までの価値観や、やり方では通用しないな
と。

まぁ、ものごとは必ず移り変わるわけで
成長すれば停滞もするし
下降することもあるでしょう。
それは自然の摂理みたいなものでしょうから。

ただここで
従来の価値観を保って
現状維持をするのは
大変危険なやり方です。

だって、環境が変わるのですから
現状維持をしたら
相対的には現状維持になりません。

人は変化を嫌うし
分からないことに対しては
思考停止する場合もあるでしょうから
これは思いのほか難しいところ。

さて、ここで大事なのは
ものごとには多面性があるので
ある方向から見て
一見、悲観的な状況であっても
別な方向から見ると有利になることもある
ということです。

しかし…

つづく

技術との付き合い方

「技術」は、そもそもの太古の昔は存在せず
何らかの目的を達するために生まれたわけで
「手段」に過ぎない…

なんて言ったら軽く見過ぎているようだけど
実際その通りです。

要は、ある手段を達成することができるのなら
どんな技術でも良いわけです。

もちろん、高度な目的を達するためには
高度な技術が必要なわけで
そういった経緯で技術は発達してきました。

ちょっと厄介なのは
理系人間の我々は
「技術」が好きなわけで

何かをやるときに
ついつい技術の側から
全体を構成したくなっちゃうのです。

つまり、手段を先に決めがち。

細かいところからやろうとするのは
学校教育の弊害でもあるとは思いますが

手段を先に決めると
それによって為されるゴールが制限されちゃって

ヘタすると目的が手段にコントロールされる
なんてことも起きて

それではまさに本末転倒。

技術の進歩は
実現手段は置いておいて
高いゴールを設定して
「これ、なんとかならねぇかな」
というところから生まれます。

ゴール到達のモチベーションが高ければ
何がなんでも手段を生み出そうとするでしょう。

これに対して
楽をすることがゴールだったりすると…

目標(形上のものであって、すでにゴールではない)を設定して
実現手段は、できるだけ労力が必要無いことを選択する(むしろこっちがゴールだから)けど
無理そうなら目標を手段に合わせて下げちゃったりして
一体、何のために何をやっているのやら…
という状態になります。

ヘタすれば
「それは不可能である」
ということになれば
それこそやる必要が無くなるので
最高に楽になる。

しかもこのロジック
意外なほど蔓延していると思います。

まぁつまり
技術と付き合っていくなら
好きなことに熱中するようなやり方をしないと
ちょっとうまくいきそうもないわけです。

これ、知識とか知能とかじゃなくて
心の問題でしょう?

そう思いませんか?