なぜ縄文か?

なぜ縄文の遺物を見に行くのか?

別に昔から考古ファンだったわけではありません。
ものづくりを昔へ辿っていったらたどり着いただけです。

我々のものづくりの根源には何があるのかを知りたかったのです。
ルーツを探れば、今後我々が活かすべき特異性が見えてくるのではなかろうか、と。

石器時代だと、作り手の意思が伝わらなさすぎるので、その次の縄文を見てやろうと思ったのですが…

「縄文」といえば、縄をコロコロ転がして模様を付けた土器でしょ?
と当初は思っていたのですが、そんなに単純なものではありませんでした。

甘かった。
そんなに簡単に理解できるシロモノではありません。
我々の先人が作ったのに、何が言いたかったのか、さっぱり分かりません。

何か言いたかったわけでなかったにしても、これは普通ではありません。

ただ、凄いってのは伝わります。
凄すぎる。
こんなの作れない。

この細かい模様は爪で付けたようです。

多くに共通するモチーフは、グルグルの渦巻き模様。
これは縄文の女神の頭部。
渦巻き模様は、各地の土器に共通するモチーフだと思いますが、それはなぜ?
それに、そもそも自然界で渦巻きを目にすることは、ほとんど無い気がするのです。

あまりにも繊細だったりもします。

この躍動感は一体何なのでしょう?
実用性があるようには見えません。

かと思えば、異常に滑らかで、精緻なものがあったり。
これは急須状の土器ですが、口の部分の真円度は大したものです。

写実的という概念が無かったのか?

そうでもないのか?

ともかく、見れば見るほど謎は深まるばかりです。

チャレンジは非対称性を持つ

失敗は皆の嫌われ者。
だけど、多くが失敗を理解していないというお話しです。

一般的に
チャレンジして、成功すればプラス側にカウントされる。

では、失敗すると逆に何かが奪われてしまうのか?

実は何も奪われることはない。

すでに持っているものを奪われるようなことはないし
今できていることができなくなるわけでもない。

新しい知見が得られるという意味では
成功しようが失敗しようがプラスにカウントできる。

成功すれば得られる
失敗すれば失う
のであれば、それは
対称性を持つ
ということになるのだけど

チャレンジの実際では
やれば得られる
失敗しても失うわけではない
むしろ、それでも何かを得られる
というように
非対称
なのですね。

ただし失敗した時に
ネガティブな見方をしてしまうと
得られるはずのものも見えなくなってしまう
という点には注意が必要です。

要は、受け止め方次第
つまり、自分次第ということです。

ちなみに
チャレンジしなければ失うものはありません。
しかし、得られるものは何もない
ということになります。

循環させるべきもの

「循環型社会」と聞くと
一般的には、資源やらエネルギーやらを指しますよね。

でも、それ以前に循環させるべきものがあるのではないか
というのが今回のお話し。

経済の低迷
情勢不安
などなど
色々あって
なんかしっくりこないというか
ザワザワするというか…

それらの根底に共通の原因があるような気がしなくもない。

それは
利己的な社会になってきているから
ではなかろうか?

これは
価値の循環が止まるとうまくいかないのではなかろうか
ということなのですけどね。

ここで言いたい
というか
このブログで言っている「価値」とは
お金(マネー)に限らず
もっと根源的なものです。

本来
創造して提供した価値の大きさに応じて対価が払われ
受け取った対価を他の価値に払う
そうやって価値が循環して社会は回るもの。
まるで体内の血液の流れのように。

ところが
その流れを構成する一部が
恐怖とか欲得とか
はたまた怠惰とか
何かしらの理由で利己的になり
自分の手元で価値の流れを止める

流れが滞ることにより不健全になり
それによって恐怖とか欲得とかが増幅・増殖して
ますます流れが滞る

そういったことが起きているのではないだろうか。

本来、我々の社会は
相互に依存しないと成立しないのだけど…

物質的に豊かになって
便利になって
他に依存せずとも生きられるような(気がする)
かつては「理想」とされた状況になって

「社会に価値を提供する共同体」だったはずの企業が
いつの間にか「利益を最大化する装置」となり

個人も
「社会に何を提供できるか」より
「自分が何を得られるか」
を優先できるようになって

価値を循環させるのではなく
手元に貯め込むことが優先されている。

それはもちろん
循環させなくても、すぐには破綻しないから。

であれば、そうなるのは当然なのかもしれない。

でも、じっくり破綻に向かっている気がする。

それらを一挙解決!とはいかないまでも
状況をちょっとだけでも改善できないだろうか
と思うのです。

そんなことを考えながら感じているのは
恐怖でも怒りでも絶望でも無く…

こりゃ面白いことになってきたぞ

だったりするのは不謹慎でしょうか。