壺に入るな

領域を狭めて何かに特化するのは
戦略として必要なことです。

人類の発展の歴史も
人々が、様々なタスクに特化して
専門化したからこそ成し遂げられたこと。

それぞれが何かに特化して強みを作る
皆がそうしている状態を俯瞰して全体を見ると
総合的にレベルが上がっている
ということです。

大学で「文系」とか「理系」に分かれて学ぶのも
要はそういうことです。

美味しいパンが食べられるのは
パン屋さんが頑張ってくれているからです。

でも
「別に言われたからやってるだけで
最小限、最低限でいいじゃねぇか」
と思い始めるとどうなるでしょうね。

領域を狭めるのは
専門化して、何かに特化して
強みを作るのでは無く

単にタイパの良い仕事にして
負荷を低減して楽したい
単に効率を向上するのが目的
となっているとしたら…

余計なことをしたくないから
専門化しているとしたら…

それは全くハッピーではありません。

確かに専門家は増えるかもしれませんが
余計なことをしたくないという動機での専門化は
狭い領域に閉じこもり
自分の専門外には手を出さなくなるでしょう。

タイパだのコスパだのを向上させる
つまり単に効率を向上させるため
広い領域を見られる人が減るはずです。

※この場合の「専門家」は、別にエンジニアとか学者さんとかの特定の職業を指すのでは無く、各人が「特定の自分の仕事を持っている状態」を言っています。

システムは、個別の要素でできています。
国家というシステムは国民で
マシンというシステムは部品で構成されている。

まず個別の要素を作って
それらを集合させて
全体ができあがる…
ではありません。

完成した部品を使って
クルマなどを組み上げるプロセスを見ると
その通りに見えるのだけど
構想段階では全く逆のことをやっています。

まずは全体の構想です。
単品は、それによって決まる。
たぶん、多くの人がこれを誤解しています。

「個」の状態でゴールが無く
狭い領域しか考えない

これはいわゆる「タコツボ」状態です。

皮肉なことに
タコツボ化していると
タコツボ状態になっていることには気付けません。

壺の中にいるタコは周りが見えないのだから
現状と比べようが無いのだから。

それに、その状態が理想だったりするから。

であれば
気付けないし変われない。
気付きたくないし、変わりたくないのかも。

さて、長くなりましたが
ここまでが問題提起みたいなものです。

皆が限られた領域に閉じこもるなら
「間を繋ぐ者」がいなくなります。
「全体を見られる者」がいなくなる。

ということは
そういうニーズがあるということです。
色々分かる・できる人がいないと
システムは構成できませんから。

間を繋ぐためには
全体を見るためには
色々経験しておく必要があります。

深けりゃ良いってものではありません。
というより
狭いだけではよろしくない。

さらに言うなら
専門領域をやるにしても
全体が分かっていれば
何をどうすべきかを考えられます。

もちろん専門家は必要なのですが
それだけじゃダメってことです。

特等席は空席だ

学校教育では
問題が与えられる
条件も与えられる
解くべき範囲も決まっている
そして、ほとんどの場合、正解も存在して
リスクも排除されている。

何のために?
とか
なぜ?
は無くて
正解・不正解のみが存在する。

そんなプロセスしか経験しておらず
そんな環境で過ごしていれば

ゼロヒャク思考とか
正解を追求してチャレンジできないとか
そういう極端なことになってしまうのは当然かもしれません。

そんな環境から社会に出ると…

正解はありません。
ヘタすりゃ問題も明確になっていません。
それらは自分で想像(創造)して追求するものだから。
でも、責任はあります。

今まで
主体性は必要無く
環境から様々なリスクを排除されて
責任も問われず
メンタルタフネスが向上する理由も無いとしたら

ハラスメントなどに敏感になるとか
「ブラック企業」とかのワードがが容易に出てくるとか
その辺も理解できます。

自分を守ることが行動の中心になるのは当然かもしれません。

しかし!

自分を守る
これは、自分以外
誰も喜びません。
家族は別でしょうけど。

つまり
価値が最小限になるのです。
そこにゴールをセットするのはいかがなものか。

この風潮は必ず行き詰まります。
だって、価値を生まない価値観で
このまま未来永劫継続できるはずは無いから。
必ず何かが、誰かが行き詰まります。

ではどうしましょう?

近年学校で言われる

主体的に…
とか
答えが無い問題を…
とか

それらがヒントなのですが
それ、凄く分かりにくいでしょう?
一体何をしたらいいの?
ってなるでしょう。

たぶん、具体的に言いにくいのですよ。
授業と矛盾するから。

自らリスクを取ってコントロールする経験
やらないと分からない事をやる経験
つまりチャレンジ
ですが

そういったことで得られること、分かること
そういったことが凄く重要になります。

これ、予想じゃ無くて
当たり前だと思ってます。

だって
そういうことは誰かがやってくれないと困るのですけど
ニーズを満たす人材が少なすぎるのです。
それらの素地を身に付ける機会も環境も無さ過ぎます。

高い価値を創造するには
リスクもチャレンジも欠かせませないのに
そこを目指す人が少なすぎる。

多くは
リスクを取らずに
チャレンジなんかせずに
失敗せずに確実に
と思っている。

ということは…
それはチャンスです!
特等席が空席です!

さあ
頑張って探すか
自ら作るか
自力で何とかしましょう。

すぐにです。

これを誰かに探してもらうとか
「後で」「そのうち」「できるなら」
となると本末転倒なので要注意。

色々やっとけ

この先
「色々やる」
というのが重要なキーワードの一つになるだろう
というお話しです。

それはなぜか?

みんな「やらされすぎ」だからです。

言われたことをやる
言われたらやる
言われなければやらない

そんな感じでしょう。

無理もありません。
やらされすぎたら
できればやりたくなくなる。

どうせやるなら
限定した領域でとか
最小限でとか
余計なことはやりたくないとか
そういうことになるでしょう。

もうこの時点でアイデアが必要な
クリエイティブなことは難しいでしょうね。
残念ですが。

現状はそんな感じでしょう。

多くの要素やアイデアから磨かれて
ミニマルになったものは美しいですが
そもそもの出発点がミニマムでは
磨きようがなく、何者にもなりようがありません。

大きな原石を割っていって磨けば
美しい宝石になるかもしれませんが
砂粒を磨いて美しい宝石を手に入れることはできません。

一応言っておきますが
こういう状況になってしまったのは
当事者である若い世代のせいではありません。
環境を作った年長者の責任です。

しかも悪気は無いどころか
良かれと思ってリスクを排除して
あーしろ、こーしろ
と言って
彼らを導こうとした結果でしょう。

その結果

何のために?
なぜ?

といった
クリティカルな部分

考える必要が無くなるのです。

だって、指示側が
それら全てを考えた上で指示しているのですから
指示される側が主体的に考えることは許されません。

主体的に考えて
間違えたら
失敗したら
一体どうすんの!?
余計なこと考えるな!!

となると
指示される側は
クリティカルなことを
考える必要は無くなります。

受けた指示を正として
余計なことはせず
受け止め実行するのみ。

出された問題を解く
というシーケンスを延々と繰り返して
無駄が無く効率的な
「コスパ・タイパが良い」教育を受けて
社会に放り出されるわけです。

でもそれでは
全く面白くなくて
結局は誰のためにもならない
ということが明らかになる時が来るでしょう。

そう。
「コスパ」「タイパ」とは言っても
パフォーマンスが高いのは学校内でのペーパーテストだけ。
それは社会で必要とされるパフォーマンスではないので。

ちなみに
すでにそれは問題になっていますが
明らかになっていないだけです。

というわけで
「色々やる」
が突破口になるだろうな
と思ってます。

ま、突破したい人にとっては
ですが。