価値はどこにあるのか その5

価値を作るスタート地点は

そのために何を
どこまで払うか
それを自分で決めること

そういうことなのだと思う。

とはいうものの
それらに対して許容できる
ボーダーラインがあるでしょう。
それは人によって様々。

何をやるかだけでなく
どこまで踏み込めるか
それが価値の大きさを決める
そんな側面もあるということです。

戦争の時代を生きてきた人達は
死へのボーダーラインを知っています。
なので
しんどいことに対しても
「死ぬわけじゃあるまい」
と言えます。

私の親や子供の頃の先生は
戦争を経験した世代です。

艦上機からの機銃掃射で
友達が撃たれて死んだ
とか
空襲で近所の人が皆死んでしまった
とか
そういう世代です。

皆が同じ方向に逃げたがめに
爆撃で皆が一度に死んでしまったとか

そういった経験を元に
ボーダーラインを決めていたり
皆と同じことをしない
という価値観を持っていたりします。

なので
リアルな感覚を元に
「生死」を基準にできます。
もちろん人にもよりますが。

私が子供の頃は
喧嘩や体罰が
さほど珍しくありませんでした。
それは私のデキが悪かったから
というのもありますが。

ともかく
「肉体的な苦痛」が身近で
それを基準とできる。
もちろん人によります。

今は、肉体的な攻撃はもちろん
言葉ですら気を遣う必要がある
そんな世の中です。

なので
「精神的な苦痛」に敏感です。
もちろんこれも人によります。

結局、人それぞれなのですが
各世代が持つ
大まかな基準があります。

そういった世代間の価値観や認識の違いが
ジェネレーションギャップです。

世代が離れれば離れるほど
相互の理解が難しくなります。

今の若い世代に
「生死を基準にものを考えろ」
と言っても難しいでしょう。

ともあれ
「怖い」
「もう無理だ」
と感じるボーダーラインは
生まれつき固定されているわけではありません。

経験によって、その線は動き
どこまで頑張れるか
というボーダーラインが決まる。

そのボーダーラインによって
同じことをやったとしても
パフォーマンスが
成果が
価値が決まってくるのです。

限界まで行ったことがなければ
自分の限界がどこにあるのかは分からない。

そして
その限界の向こう側に
他人が簡単にはつくれない価値があるのです。

…と、言うのは簡単ですが
やるとなるとこれがなかなか…。

人生は修行ですね。

でも、どうせやるなら
自ら好んでやる修行にしたいものです。

価値はどこにあるのか その4

「価値をつくる」
ということは

失敗
面倒
苦労
恐怖
悔しさ

などを感じるリスクを
「他人のため」に
どこまで背負えるか
ということでもある。

「自分のため」では
他から見たら価値は無いですから…

と思っているのですが
そんな話をすると

そのために
悲壮な覚悟や
犠牲的な行動が…

と思ってしまいませんか?

そうではありません。

悲壮な
とか
犠牲的な
なんて奴隷的な感情では
継続は難しいし
大きな価値も生み出しにくい。

しかし、なぜそう思ってしまうか?

それは日頃から
やらされる行動ばかりだから
ではないかな?

でも、そうではなくて

様々なリスクは
「自ら望むこと」
つまり
「やりたいこと」の中に
含まれているのが理想です。

好きなことでも
突き詰めていけば
必ず壁にぶつかる

そういうものですし
そういうレベルまでチャレンジしてこそ
価値になるのです。

そして
その結果
相手が喜んで
自分も喜ぶ。

そうじゃないとやってられません。

もちろん
何に対して「快」を感じるか
というのも重要なポイント。

他人が恐怖や不快感を感じているものに対しても
自分はそうでなかったりするし
むしろ楽しかったりするなら

それは独自性であり、優位性であり
価値の「入り口」です。

なのでむしろ、そういうのは
他人と異なっていた方が理想的。

やりたいことにチャレンジする
でも
いずれ壁にぶち当たる

そこで感じるのが
冒頭の
失敗
面倒
苦労
恐怖
悔しさ
であれば
それは決してネガティブなことではなく
何かを失っているわけでもありません。

そういう経験そのものが
次に価値を生み出すための
自分を作るのは確かでしょう。

それが成長であり学びです。

価値はどこにあるのか その3

価値の高いところには大抵

大変
面倒
難しい
時間が掛かる
高い能力が必要
失敗するかもしれないというリスク
など

そんな
「簡単にはできない理由」
がある。

だったら
自分はそのために
何をどこまで払えるのか?
というのが今回のお話です。

もちろん
お金に限定した話ではありません。

時間を払う
労力を払う
失敗する
恥をかく
悔しい思いをする
精神的にキツい思いをする
肉体的にキツい思いをする

もっと先まで行けば、
命に関わるリスクだってある。

もちろん
苦労すればするほど
価値が高くなる
という話ではない。

でも
苦労を経なければ
生まれない価値はある。

面倒を経験したことがなければ
「この面倒を何とかしたい」
とは思わないでしょう。

失敗したことがなければ
「次はどうする?」
と本気で考える必要はない。

自分の限界まで行ったことがなければ
どこまで行けるのか
それも分からない。

効率化というのは
ある意味では
払わずに済むようにすること
なのだと思う。

でも
払わなくてよくなったものは
経験しなくてもよくなったものでもある。

経験しなくなったものは
もう分からないし
できない。

だから
何でも効率よくやればいい
とも思いません。

特に、自分にとって大切なものに関しては
広い視野を確保するためにも
「効率」はさほど重要ではなかったりする。

では、そのために
何をどこまで払うのか?

心はどこまで払えるか
体はどこまで払えるか
命はどこまで払えるか

心は
キツい経験をしても
そこから再構築できることがある。

それによって
以前より強くなる。
もちろん限度はある。

肉体も
負荷をかければ強くなるし
傷ついても
ある程度は治る。
もちろん、これにも限度はある。

そして命。
これは失ったら戻らない。

どこまで払うか
どこまで守るか

それは
自分で決めるべきこと。

払うこと自体が
偉いわけではないし
無茶をすることに
価値があるわけでもない。

とはいえ
払いたくないものが増えれば
行けないところも増える。

逆に
ここまでは払う
と自分で決めれば
それまで行けなかったところまで
行けるかもしれない。

そして
そこで払ったものは
目的を達成するための
単なるコストではないのかもしれない。

失敗
面倒
苦労
恐怖
悔しさ

そういう経験そのものが
次に価値を生み出すための土台を作る。

だから
価値を作る上で大事なのは
ゴールの設定はもちろんですが
そのために
何をどこまで払うか
それを自分で決めること

だと思うのです。

ただ残念なことに学校では
どんな価値のために
何がどれだけ払われているか
といったことを知る機会が無かったりします。

それじゃぁ何が必要かなんて分からないよね。