利己的ではうまくいかないわけ

価値の話の続きになるのですが
どういう状態が価値が無いのか
どうしたら価値を失うのか
それを考えると方向性が見えてくるのではなかろうか
というのが今回。

今の日本は、かつてに比べて利己的になっていると思います。

例えば
「お国のために」
なんて言っている人はおかしい人
って感じでしょう?

自分の事ばかり考えているのが普通。
もちろん私も人のことは言えませんが。

それが常態化してしまっているのが問題で
そうなってしまうと、なかなか気付けません。

現状はどうなっているのか?
なぜそうなってしまったのか?

これらを考えることによって
どうすべきか
が見えてくるのではなかろうか?
と思いました。

思い付くところをざっと挙げてみましょう。

1.豊かさが共同性の必要性を下げた
助け合わなくても、サービスを買えば生活できる。
すると、他者への想像力を使う場面が減る。
相手がどう思うかを考える必要が無くなるのですね。

2.競争と評価が個人単位に細分化された
学校でも会社でも
「自分の成果」
「自分の点数」
「自分の市場価値」
が強調される。
すると、価値の循環より
個人の最適化に意識が向きやすい。

3.便利さが待つ力や関わる力を弱めた
すぐ手に入る
すぐ答えが出る
すぐ評価される
これは便利で快適ですが
他者と時間をかけて構築する力とは相性が悪い。
価値の循環は、本来かなり泥臭くて遅いものです。

4.失敗や摩擦を避ける文化が強くなった
失敗を掘り返して、そこから学ぶことが成長に繋がるのに
今は失敗しないことが優先されやすい。
すると、他者とぶつかりながら価値を作るより
自分の安全圏に閉じる方が合理的に見えてしまう。
「失敗してナンボ」
「困難を打破するチャレンジが成長につながる」
という感覚とは逆方向です。

戦後の発展は、個人を貧しさや不便さから解放しました。
しかし同時に、個人を共同性からも解放しすぎた。
そういうことではないでしょうか。

自由になった。
便利になった。
快適になった。
でもその結果
「自分は何に支えられているのか」
「自分は何を返しているのか」
が見えにくくなった。

で、利己性が発動するのだけど
そうなればなるほど
求めるばかりになって
価値を発することが難しくなって

こんなに強く求めてるのに
何で手に入らないのだ!
みたいな
訳の分からないジレンマに陥るのではないでしょうか。

成長のチャンスは後悔の後に

何かをやった結果
「こんなことになるなら…」

と思うことがありますか?
まあ、誰でもあるでしょう。
これ、後悔ですね。
「失敗」という結果に対する。

チャレンジしていたら
よくある話です。

でもこれ、学びですよ。
「ああすると、こういうことが起きるのだな」
という。

で
その学びを継続しなければならないわけなのですが
メンタルタフネスだけでは
一時的に乗り越えられても
継続できません。

「こんなことになるなら…」
の後に何を繋げるか
それが問題で

恐らくそれが
失敗に打ちのめされて
チャレンジできなくなったり
同じ失敗を繰り返す人と
経験を糧にしてチャレンジできる人
の違いをつくるのではないかな
と思うのです。

「こんなことになるなら…」
の後に

「やらなきゃよかった」
はたまた
「こんなことになるなら…」
という過ぎてしまった過去の結果に執着して
思考停止して足を止めるのか

もしくは
「じゃ、次はこうする」
と決めて
改善のループを回すのか

何かをやれば
何かが起きる

それは当然。

そこから学ばず
結果にフォーカスして
後悔で終わるか

繰り返さないために
チャレンジを止めるか

でも経験から学んで
次を決めて行動できれば
次はきっと違うことが起きる。

ほら
チャンスは自分で作れるのですよ。

価値はどこにあるのか その5

価値を作るスタート地点は

そのために何を
どこまで払うか
それを自分で決めること

そういうことなのだと思う。

とはいうものの
それらに対して許容できる
ボーダーラインがあるでしょう。
それは人によって様々。

何をやるかだけでなく
どこまで踏み込めるか
それが価値の大きさを決める
そんな側面もあるということです。

戦争の時代を生きてきた人達は
死へのボーダーラインを知っています。
なので
しんどいことに対しても
「死ぬわけじゃあるまい」
と言えます。

私の親や子供の頃の先生は
戦争を経験した世代です。

艦上機からの機銃掃射で
友達が撃たれて死んだ
とか
空襲で近所の人が皆死んでしまった
とか
そういう世代です。

皆が同じ方向に逃げたがめに
爆撃で皆が一度に死んでしまったとか

そういった経験を元に
ボーダーラインを決めていたり
皆と同じことをしない
という価値観を持っていたりします。

なので
リアルな感覚を元に
「生死」を基準にできます。
もちろん人にもよりますが。

私が子供の頃は
喧嘩や体罰が
さほど珍しくありませんでした。
それは私のデキが悪かったから
というのもありますが。

ともかく
「肉体的な苦痛」が身近で
それを基準とできる。
もちろん人によります。

今は、肉体的な攻撃はもちろん
言葉ですら気を遣う必要がある
そんな世の中です。

なので
「精神的な苦痛」に敏感です。
もちろんこれも人によります。

結局、人それぞれなのですが
各世代が持つ
大まかな基準があります。

そういった世代間の価値観や認識の違いが
ジェネレーションギャップです。

世代が離れれば離れるほど
相互の理解が難しくなります。

今の若い世代に
「生死を基準にものを考えろ」
と言っても難しいでしょう。

ともあれ
「怖い」
「もう無理だ」
と感じるボーダーラインは
生まれつき固定されているわけではありません。

経験によって、その線は動き
どこまで頑張れるか
というボーダーラインが決まる。

そのボーダーラインによって
同じことをやったとしても
パフォーマンスが
成果が
価値が決まってくるのです。

限界まで行ったことがなければ
自分の限界がどこにあるのかは分からない。

そして
その限界の向こう側に
他人が簡単にはつくれない価値があるのです。

…と、言うのは簡単ですが
やるとなるとこれがなかなか…。

人生は修行ですね。

でも、どうせやるなら
自ら好んでやる修行にしたいものです。