チャレンジは非対称性を持つ

失敗は皆の嫌われ者。
だけど、多くが失敗を理解していないというお話しです。

一般的に
チャレンジして、成功すればプラス側にカウントされる。

では、失敗すると逆に何かが奪われてしまうのか?

実は何も奪われることはない。

すでに持っているものを奪われるようなことはないし
今できていることができなくなるわけでもない。

新しい知見が得られるという意味では
成功しようが失敗しようがプラスにカウントできる。

成功すれば得られる
失敗すれば失う
のであれば、それは
対称性を持つ
ということになるのだけど

チャレンジの実際では
やれば得られる
失敗しても失うわけではない
むしろ、それでも何かを得られる
というように
非対称
なのですね。

ただし失敗した時に
ネガティブな見方をしてしまうと
得られるはずのものも見えなくなってしまう
という点には注意が必要です。

要は、受け止め方次第
つまり、自分次第ということです。

ちなみに
チャレンジしなければ失うものはありません。
しかし、得られるものは何もない
ということになります。

循環させるべきもの

「循環型社会」と聞くと
一般的には、資源やらエネルギーやらを指しますよね。

でも、それ以前に循環させるべきものがあるのではないか
というのが今回のお話し。

経済の低迷
情勢不安
などなど
色々あって
なんかしっくりこないというか
ザワザワするというか…

それらの根底に共通の原因があるような気がしなくもない。

それは
利己的な社会になってきているから
ではなかろうか?

これは
価値の循環が止まるとうまくいかないのではなかろうか
ということなのですけどね。

ここで言いたい
というか
このブログで言っている「価値」とは
お金(マネー)に限らず
もっと根源的なものです。

本来
創造して提供した価値の大きさに応じて対価が払われ
受け取った対価を他の価値に払う
そうやって価値が循環して社会は回るもの。
まるで体内の血液の流れのように。

ところが
その流れを構成する一部が
恐怖とか欲得とか
はたまた怠惰とか
何かしらの理由で利己的になり
自分の手元で価値の流れを止める

流れが滞ることにより不健全になり
それによって恐怖とか欲得とかが増幅・増殖して
ますます流れが滞る

そういったことが起きているのではないだろうか。

本来、我々の社会は
相互に依存しないと成立しないのだけど…

物質的に豊かになって
便利になって
他に依存せずとも生きられるような(気がする)
かつては「理想」とされた状況になって

「社会に価値を提供する共同体」だったはずの企業が
いつの間にか「利益を最大化する装置」となり

個人も
「社会に何を提供できるか」より
「自分が何を得られるか」
を優先できるようになって

価値を循環させるのではなく
手元に貯め込むことが優先されている。

それはもちろん
循環させなくても、すぐには破綻しないから。

であれば、そうなるのは当然なのかもしれない。

でも、じっくり破綻に向かっている気がする。

それらを一挙解決!とはいかないまでも
状況をちょっとだけでも改善できないだろうか
と思うのです。

そんなことを考えながら感じているのは
恐怖でも怒りでも絶望でも無く…

こりゃ面白いことになってきたぞ

だったりするのは不謹慎でしょうか。

学びの本質

そもそも
「何のために学ぶか」がズレているのではないか
と思っています。

本来、学習は成長そのものであるのが理想でしょう。
「成長」とは学力でしょうか?
学力が含まれていても良いと思いますが、イコールでは無いはずです。
現実世界の課題を解決するために学んでいるのですから。

その「課題」とは
将来の職業であったり、スキルであったり、具体的な能力だったり…
それらを実現するのがゴールです。

なので学習は
それらの課題を解決し
ゴールに到達するためのものである必要があります。

エンジニアを育成するのであれば
現場で、現実で、現物で
役に立つ知識や経験が重要でしょう。

しかし、実際はどうなっているかというと
学習は単位取得の手段です。
学校では、どんなに実践力を持っていても
ペーパーテストの点数が良くなければダメです。

与えられたから学ぶ
学んだことは、いつか使うだろう(その多くは使わないけど)
ではなく

必要に迫られて学ぶ
課題を解決するために学ぶ
やってみて、分からないから学ぶ
そして、自分で決めて動く

これでしょう。

なので、魅力的なゴールが重要なのですよね。