オーストラリア遠征 Day 1

2年ぶりにFormula SAEのオーストラリア大会に行ってきます。

2年ぶりということは、去年は出場キャンセルだったわけで、それだけチームのパフォーマンスは低下していたわけです。
しかし、今年は何とか持ち直してきて再起動といった感じです。

もちろん納得がいくだけの回復には達していませんが、海外大会に行ける状態にはなったということです。

当然ながら、今回は相当苦労するとは思いますが、早めに色々経験して分かっておくことが今後のためにはとても重要。

今回は、学生8名に加えて、現地での移動に使うレンタカーのドライバーとして、当チーム第一期の卒業生が1名同行してくれます。

飛行機は19:55成田発、翌朝8:20にメルボルン着の直行便です。

試すのは今だ

法律とかルールは厳然たるものですが、それ以外の善悪とか得とか損とか、大抵のものごとの評価基準は、その人次第だと思っています。
モラルとか価値観に基づく部分ですね。
いわゆる「普通」と呼ばれる評価基準ってのはあるでしょうけど。

我が国は、比較的評価の「ものさし」が画一的だと思います。
多くの人が似たような価値観を持っていて、そこから外れることを嫌ったりします。

それが良いとか悪いとかを安直に言うのは難しいです。

というのも、画一的なものさしを持つからこそできることがあるし、その一方、できないこともあるからです。

そのものさしの基準から外れなければ、多くの人が同じようなことができるということで、それはそれでメリットがあります。

一つのオーダーに従って、皆が同じことをすれば、同じ成果が大量に得られて、コスト低減と品質の安定に寄与します。

一方、そのやり方では、少量で高い加価値を生み出すのは難しい。

そんなものです。
もちろん、少量で高付加価値を生み出す方法では、低コストな大量生産はできません。

どちらが良いと悪いとかいう話ではなく、両者にはトレードオフの関係が効いていて、時と場合に応じて良否が決まるというところでしょう。

ただ、これは理屈の話であって、実際にやるのは人間です。
人間はそう簡単には変われません。

あらかじめやるべき事を決められている環境に慣れている人は、環境の変化に対して
「余計なことはやりたくない」
と思う傾向が強いでしょう。

自由な環境で、自らやるべき事を決める環境に慣れている人は、あらかじめ決められた環境で、言われたことに単に従うことをやるのは難しい。
こういうタイプは、同じことの繰り返しには耐えられない。

現在、この両者のための機会があるかというと、そんなことはなくて、言われたことをやるのが教育だ、というような単一の環境しか用意されていません。

これから世の中が大きく変わるのは、ほぼ確定でしょう。
というか、すでに変わり始めています。

この先どうなるかは不確定なわけで、その先の見えない環境に適応するためには、どういう機会が必要なのか?
果たして今のままのやり方で通用するのか?

まぁ、通用しないのは明白なのですけどね。
みんな気付いているでしょう?直感的に。

で、どうしたら良いのか?
そんなのは誰にも分からないので、誰もあてにできません。
自ら考え、自ら試すしかありません。

試すための機会を、習慣を作っていますか?

安心して良いのは、どうせ正解なんて無いということ。
考えて試して、その結果でまた考えて…
そんなことをしていれば、そのうち何か見えてきますよ。
それを楽しまないとね。

好きなことをやるということ

以前、陰陽についての記事を書きました。
陰があれば陽もあって、それらはセットになっているとか
ものごとの多面性とか
そういう内容でした。

学校で学生の成長を見ながら日々を送っていると、そういったことを実感します。

例えば…
お年頃の学生達は、面倒なことをしたくない。
私も経験があります。山ほど。

で、やるべき事の先送りをしがちです。
先送りしたときは、労力的には楽になります。
気持ちはモヤモヤするでしょうけど。

しかし

初動の段階で重要なことを先送りしても
というか、先送りすると
後で必ず相応の、というか、先送りした分ブーストが掛かった何かが起きます。
その「何か」は、どうにもなりません。
選択の余地無く受け入れるしかない「何か」です。
それを究極の選択とも言いますね。どちらも選びたくないけど、どちらかを選ばなければならない選択です。

で、トータルで見ると、楽でもないし、得もしなかったね、ということになる。

初動の段階で楽ができた
でも、結果としては選択の余地無く好まざるものを受け入れるしかなかった。
労力と精神的なストレスという違いはあれど、これらを均して見ると、プラスマイナスゼロ
というような感じになる。

対して、初動が早ければ、残された時間も長いわけで、自ずと成果を出しやすい状態になります。

初動の段階では大きな労力を払って、その結果、相応の成果を得る。
ごく当たり前のことですね。

この場合
初動の段階で労力を払った
その結果として相応のものを得た
ということで、これも全体を均して見ると、プラスマイナスゼロという見方もできる。

なので当然、やるべき事をとっととやった方が良いわけです。

とはいえ
それができたら苦労しないよ!
ですよね?
小学校の夏休みの宿題状態です。

これを解決するのはシンプルです。

我々は、幼少の頃から成人するまで、「言われたことをやる」という経験ばかりで、収入確保兼社会勉強としてのアルバイトだって、基本的には言われたことをやるのが仕事です。
そんな状態では、選択の余地なんか無い…ような気がしてくるでしょう?
社会に出たら、アルバイト以上に「やらされる」のが仕事だって思うでしょう。そうなるのだ、って。
まぁ、そういう人もいますけどね。

その結果、心は「できればやりたくない」に落ち着く。
やりたくないことをうまいことやる、なんてのは無理な話です。

では、どうするか?

自分がやりたいことに関しては、とにかく早くやりたいとか、とことんやりたいって思うでしょう?

そういう状態、好きなことだから意識していないけど、すごく労力を払えるのですよ。
それこそ寝食を忘れるほど。

なので、「やりたいこと」と「やるべきこと」をいかに合致させるかというのがポイントなのです。
それは学校においても、仕事においても。

「やりたいこと」と「やるべきこと」の合致ができればハッピーなのですが、そういうのは、能力の話として片付けられることが多くありませんか?

これ、能力じゃないのですよ。
いや、能力と言ってしまっても良いのかもしれませんが。

結局のところ
いかに好きなことをやるか

いかにやっていることを好きになるか
この二つが大事なのです。

好きなことでいくぞ!と選ぶには勇気が必要だし、それを価値あるレベルまで引き上げるには労力が必要。
やっていることを好きになるには工夫が必要だし、労力も忍耐力も必要でしょう。

何事も良いことばかりじゃ無いのですよ。
いつかは何かを払わなければならない時が来る。必ず。
それがリスクです。

であれば、それを自分で決めるのか
それとも、受け入れざるを得ない究極の選択がやってくるのを待つか
どちらを選ぶのも自由です。

払ったものは、後に必ず何かしらの形で帰ってきます。