夢と動機と目的と

2月に行ったニュージーランドの視察時に取ったメモを何気なく見ていたのですが
大事なことが書いてありました。

ニュージーランドは動機付けが強力

ガッチリ勉強するのは動機付けの後
日本は逆

目的が明確
手段は自由

説明しましょう。

ニュージーランドは
やりたいこと、好きなことに
夢中になるフェーズが最初にあります。

と同時に
将来は何をしたいか
というのもかなり明確になっています。

もちろんそれは
外発的動機
つまり他からの押しつけではなく
自ら選んだものです。

高校生以下で
自らの意思で動機付けが完了しています。
これは強い。

そんな調子で
好きなことをガンガンやっていって
その先に、大学で学ぶ必要があるのであれば
入学に必要なことを学び、必要なポイントを取ります。

ちなみに、大学入試はありません。
必要な分野のポイントがあれば入学できます。

受験が目的化していません。
大学に行くのは
やりたいことをやるための手段です。

その「やりたいこと」が目的なので
何をやりたいか分からない状態で学んでいる
というようなことは無いでしょう。

学びには動機があるということです。

日本は受験が目的です。
大学に入るのも目的で
一流企業に入るのも目的です。

学びはゴール到達のための手段のはずです。

しかし
動機が無いまま
それが目的化しています。

動機も無いまま
言われたことをできるようになる必要がある。

これはツライ。
というか
そんなことできるなんて凄い。

目的が明確になっていないなら
何が必要かも明確ではないわけで

だったら念のため、広い範囲のことを
徹底的にやっておきますか
みたいなことですかね。

それを
「選択肢が広がる」
と言ったりするのかな。

私は、そういうのは無理です。
動機も無いことをできるようになれとか
言われちゃうと

何を無茶なこと言ってんですか?
となってしまう。

で、「選択肢が…」とか言われても
特に強みも無い状態で
選択もヘッタクレも無いんじゃないの?
そんなヤツ選ばれる必然が無いだろう
と思ってしまうのです。

たぶん
先生達は
動機無しでも勉強ができるとか
勉強そのものが目的だったとか
そういう人が多いのかな。

学者さんとか先生になるためには
お勉強ができる必要があるのだろうから
まあ、納得ですよね。

で、学者にも先生にもなりたいわけでは無い人に
同じやり方をしなさい
ってのも、なかなか苦しいですね。

あ、私も肩書きは学者なのでした。

でも私の場合は
学者になりたくてなったわけでは無くて
そもそもエンジニアであって
好きなことをやっていて
気付いたら今の位置にいたわけで
まあ、そんなのもアリなのでしょうかね。

そんな背景もあるので
学生達には
本当に欲しいものを手に入れる方法を身に付けて欲しいのです。

そして
本当に欲しいものを手に入れる機会の一つが
Formula SAEだったりするのです。

でも、大変残念なのは
高校まで
リスクを回避しながら言われたことをやる
というトレーニングをみっちりされてくると
大学で急に変わるのは凄く難しいようです。

好きなことをガッツリ学んでくる連中は手強いです。

この現状を何とかしたいのですよ。

成功と失敗の発生確率…以前の問題

別に難しい計算は必要ありません。

よーく考えてから行動する

最低限考えたらすぐやる

どちらがうまくいくでしょう?

よーく考えることに時間を使うと
失敗する確率は減るのかもしれません。
となると、成功する確率自体は向上する…かも。

しかし、大事なことを忘れがち。

そもそも、、よーく考えて
行動が先送りになると
実行するためのチャンスが消えてしまうかもしれない
ということ。

チャンスは時間とともに変化するので
いつ無くなってしまうか分からないのです。

ペーパーテストみたいに
時間が保証されているものではないし。

よーく考えるのは
失敗しないことがゴールであることも多い。

なので、最終的には
ノートライ・ノーエラーに落ち着きがち。

では逆に

すぐにやると失敗する回数は増えるでしょう。
でも、失敗から学ぶ機会は最大化します。
チャンスを掴むトレーニングもできます。

そもそもチャンスを掴めなければ
どんなに実力があっても活かしようが無いでしょうから
成功という領域とは無塩になります。

これは思いのほか重要なのです。

学校に関するちょっとした予想

学校では
向いていようがいまいが
皆に同じことをやらせて
その成果を一つの尺度で評価して
できるとか、できないとか
そういうことになってます。

以前、記事にしましたが
これはプロイセン型の教育といって
300年前のプロイセンで始まり
150年前に日本に伝わってきたやり方です。

どうもこのやり方は
ボチボチ限界なのではなかろうか?
というのが今回のお話し。

何でボチボチ限界と思うのか?

前提として
文明や文化はもちろん、技術やら何やら
あらゆるものは、いつか潰える。
我々人間による文明だって例外では無いわけで。

学校における「授業」を使った教育だって
人類が誕生したときからあるわけではない。

プロイセン型の教育が
永久に続くなんてあり得ない。

一度に大勢に
言ったことをやらせる
といったやり方で育成された者が
社会に出て価値を創造したり
次の世代を育成したりして
今の世の中があるわけですが

年を経ることに良くなってきていて
未来が明るいのかというと
どうもそうは思えない。

世の中は変わっているけど
学校の基本的な構造は変わらない。

科目は変えてるし
表面的な部分を変えたところで
基本的な「やり方」を変えなければ
結果は大して変わらないのではないかな。

世の中は変わってきていて
従来の価値観は通用しなくなってきている気がします。
新しい価値観を
旧来のシステムにはめ込んで駆動しようとしているのが現在。

これ、メカの機構は変わらないけど
部品の一部を変えたくらいのもので
最終的な動作は一緒
みたいなものなのではないかと思うのです。

蒸気機関車を電気モーター駆動に変えたところで
レールの上を走るのには変わりありません。

今やインターネットとAIをベースとした
爆発的な情報伝達と処理の時代に突入しているわけですが
これはもう単なる技術の域を超えています。

それに応じて
ものごとの価値自体が変わっていくのは必至ではないでしょうか。
現に仕事のやり方は大きく変化しているわけで。

それに対してプロイセン型の教育で
「いいから黙って皆と同じようにやれ」
が通用するのかというと
それはもう限界でしょう。

分かりやすいところで言うと…

最近良く言われる
主体性を求めるとか
批判的思考をするとか

確かにそれらが無いと
これからのご時世
価値を生み出せないと思うのですが

それをプロイセン型の教育で手に入れるなんてのは
強烈な矛盾をはらんでいるわけで
破綻する前触れとしか思えないのですよ。

でもこの矛盾
頭の良い皆さんは
すでに気付いてるのでしょうけどね。

ここまで問題が明確化しているなら
そこそこ明確な手を打つことができそうな気がします。

でも、変えられない・変えたくない事情があるのでしょう。

なので人任せにせず
やるか
やらないか
だけです。