波風を立てよう

言いたいことを言って
やりたいことをやる

複数人がそうすれば
つまり、チームでそうすれば

波風が立つ
時には争いが起きる
事によっては喧嘩になる

でもそれは成長するためには必要なこと。
良いものを作るにも欠かせない。

むしろ
それを許さない環境がダメにする。

一切の争いが起きずに
何の困難もなく
洗練された高度なものが生まれるかというと
決してそんなことはない。

皆が従順に何かに従って
一点に向かうだけで良いものが生まれる
というのは幻想。

それぞれが最善とするものを
出して
ぶつけて
磨いて
とするから
良いものが生まれるし
自身も成長する。

組織の中の多くが
「単に従う存在」
となると
彼らを駆動し、導く存在が必要で
そこには負荷が集中する。

そして、従う者は考える必要が無くなる。

そんな状態ではトータルパフォーマンスは低下せざるを得ない。

各人が、自らの正義をアウトプットすると、必ず食い違いが起きる。
そこで、アウトプットされた情報を俯瞰し、最適なものを選ぶ
チームとしてのパフォーマンスを向上するにはこれしかないと思う。

会社組織ではむやみに喧嘩をするわけにはいかないから
上下の区別なく自由に意見を出し合える話し合いの機会を設けていたりする。

波風を立てないよう行動すると、無難なもの
ことによっては、皆にとって「楽なこと」を選択しがち。

特に現代教育ではそうなりがちなのではないだろうか。
「波風立たないように、みんな仲良く」
と育ってきていないか?
その方向性のまま行くのであれば未来は暗い。

かつては
「イエスマンじゃダメだ」
と言われていました。

これは
なんでも言われたとおりにやれば良いわけじゃない
指示待ちになるな
ということ。

学校では、イエスマン以外が得をするようなシステムにはなっていない。
なので、社会もそれに合わせて変わらざるを得ない…
としたら、これはマズイですね。
ひょっとして、すでにそうなってるのだろうか?

争いが目的では困るけど
成長のプロセスとして波風を立てることは必要なのだ。

なぜ縄文か?

なぜ縄文の遺物を見に行くのか?

別に昔から考古ファンだったわけではありません。
ものづくりを昔へ辿っていったらたどり着いただけです。

我々のものづくりの根源には何があるのかを知りたかったのです。
ルーツを探れば、今後我々が活かすべき特異性が見えてくるのではなかろうか、と。

石器時代だと、作り手の意思が伝わらなさすぎるので、その次の縄文を見てやろうと思ったのですが…

「縄文」といえば、縄をコロコロ転がして模様を付けた土器でしょ?
と当初は思っていたのですが、そんなに単純なものではありませんでした。

甘かった。
そんなに簡単に理解できるシロモノではありません。
我々の先人が作ったのに、何が言いたかったのか、さっぱり分かりません。

何か言いたかったわけでなかったにしても、これは普通ではありません。

ただ、凄いってのは伝わります。
凄すぎる。
こんなの作れない。

この細かい模様は爪で付けたようです。

多くに共通するモチーフは、グルグルの渦巻き模様。
これは縄文の女神の頭部。
渦巻き模様は、各地の土器に共通するモチーフだと思いますが、それはなぜ?
それに、そもそも自然界で渦巻きを目にすることは、ほとんど無い気がするのです。

あまりにも繊細だったりもします。

この躍動感は一体何なのでしょう?
実用性があるようには見えません。

かと思えば、異常に滑らかで、精緻なものがあったり。
これは急須状の土器ですが、口の部分の真円度は大したものです。

写実的という概念が無かったのか?

そうでもないのか?

ともかく、見れば見るほど謎は深まるばかりです。

チャレンジは非対称性を持つ

失敗は皆の嫌われ者。
だけど、多くが失敗を理解していないというお話しです。

一般的に
チャレンジして、成功すればプラス側にカウントされる。

では、失敗すると逆に何かが奪われてしまうのか?

実は何も奪われることはない。

すでに持っているものを奪われるようなことはないし
今できていることができなくなるわけでもない。

新しい知見が得られるという意味では
成功しようが失敗しようがプラスにカウントできる。

成功すれば得られる
失敗すれば失う
のであれば、それは
対称性を持つ
ということになるのだけど

チャレンジの実際では
やれば得られる
失敗しても失うわけではない
むしろ、それでも何かを得られる
というように
非対称
なのですね。

ただし失敗した時に
ネガティブな見方をしてしまうと
得られるはずのものも見えなくなってしまう
という点には注意が必要です。

要は、受け止め方次第
つまり、自分次第ということです。

ちなみに
チャレンジしなければ失うものはありません。
しかし、得られるものは何もない
ということになります。