価値はどこにあるのか その2

では
高い価値を形づくる
その根底には何があるのか?

有用性
希少性
独自性
そして需要

とまあ
ざっとこんなところでしょうか。

そして、さらにその奥には

大変
面倒
難しい
時間が掛かる
高い能力が必要
失敗するかもしれないというリスク

といった
「簡単にはできない理由」
が潜んでいることが多い。
こちらは、だいたい感情ベースです。

水や空気は
人が生きるために欠かせません。
ものすごく有用で重要です。

でも、豊富にあるところでは
ほとんど価値として意識されません。

逆に、砂漠で水が無くなれば
水中や宇宙空間で空気が無くなれば
その価値は極端に高くなる。

つまり
「役に立つ」
だけでは
高い価値にはならない。

欲しい人がいて、
しかも簡単には手に入らない
そこに価値が生まれる。

もう一つあります。

既存の欲求を満たすこと
これはもちろん価値です。

でも
人がまだ知らなかった
「望ましい状態」を提示する
これも価値で
これはもっと面白い。

自動車が存在しない時代に
「自動車が欲しい」
と思う人はいません。

スマートフォンが存在しない時代に
「スマートフォンが無いから困る」
という人もいません。

存在しなかった価値を作る
とは
問題を解決するだけではなく

「こんな世界があったらいいのにな」
というビジョンを現実にすることです。

ものづくりで大きな価値を生み出そうとするなら
こちらの方が面白いと思っています。

では、どこまでやるのか?
それは次回のお話しで。

価値はどこにあるのか その1

「人は何を守るのか」
なんてことを考えていました。

で、これは同時に
価値の作り方の話でもあるのではないか?
と思いました。
そんなお話です。

このブログでは何度も
価値だの何だの言っていますが
これは単に
「お金儲け」
の話ではありません。

自身や、自分が生み出したものが
他人からどれだけ必要とされるか
ということです。

さて、まずは
労せずして作ったものの価値
について考えてみましょう。

例えば
私がやっている
生成AIを使ってソフトウェアを作る
なんてのは、
そういうものかもしれません。

以前なら、ソフトウェアを作るには
プログラミングの知識や技術が必要でした。

でも今は生成AIに頼めば
かなりのところまで作れてしまう。

大変便利です。

でも、誰でも簡単にできるようになれば
それ自体の価値は低下します。

生成AIによってソフトウェアの価値が無くなった
ということではありません。

「その程度のソフトウェアを作れること」
の希少性がなくなったということで
価値が低下した
ということです。

では
価値はどこへ行ったのか?

一つは上流でしょう。

生成AIを使って
ソフトウェアを作ることよりも
生成AIそのものを作ることへ。

末端のユーザーが
簡単に高機能なものを作れるようになった裏側では
それを可能にするための
途方もない技術開発が行われています。

末端が簡単になった分
価値の源泉が上流へ移動したとも言えます。

AIそのものについても
同様のことが言えます。

ひとたびAIが十分に高度になれば
人間がそれほど手を掛けなくても
AI自身が、さらに高度なAIを作る
そんな状態になる可能性があります。

そうなれば、
今度は別のところに
「簡単にはできないこと」
が生まれるでしょう。

例えば
AIをどう制御し
セキュリティをどう確保するか
(これは今まさに問題になっていますね)
正しい結果なのかをどう判断するか
何をAIに任せて
何を人間が決めるのか
などなど。

簡単になったところから価値が消えるのではなく
価値のある場所が移動する。
そういうことなのでしょうね。

続く

効率の正体

効率よくやりたい

気持ちは分かります。

そしてそれは
生きものの本能に根ざしているので
そうなっちゃうのはある程度仕方ない。

といのも
生きものは
生きるために無駄なエネルギーを使いたくないのです。
だからラクしたい。

それが
面倒なことをやりたくない
に繋がっているし

テクノロジーを進化させて
便利で楽チンな世の中にしていく
原動力の一部になっています。

しかし
テクノロジーを進化させるためには
面倒なことをやる必要があります。

面倒なことをやった経験があるなら
「この面倒から何とか脱することはできないだろうか」
となるのでしょうけど

面倒なことをやらずに済んできたのなら
別に何かを変える必要性は感じないでしょう。

恐らく、その辺が先進国のジレンマでしょう。

効率の向上は
どうしたいか
どうすべきか
があって初めて必要となります。

そのためには非効率な経験が必要です。
その状況を何とかしたいという
思いが発動しない限りは
何ともなりません。

今の学校のように
「どうすべきか」
の決定を他人に依存して
何が起きるか決まっている環境で
限られたものに対応できるように
効率よく教育する
というのは
今後も通用するのでしょうか?

今の環境(今の日本)は
先人が頑張って作ってくれたわけですが

その現状に満足しているので
(特に不満は無いので)
別に自分が頑張る必要は無い

なので、自分のことだけ考えて
効率よく生きたい

ということになっているとしたら
果たしてそれで
この先の世の中を生きていけるのか?
と思ってしまうし

そもそも
そんなの面白いの?
と思ってしまいます。

あ、効率の良いものって
あまり面白くはないですよね。
そうじゃないですか?