前回
教育の目的の一つに
「導くこと」
がある
という話をしました。
で、一体どこへ?
という話になるのですが…
凄く奇妙に思えるのは
手段が目的化していることです。
ある科目で特定のスキルを身に付けること
一定以上の点数を獲得すること
それ自体は問題は無いのです。
目的があれば
です。
なぜそのスキルが
なぜその点数が
必要なのか?
それは本来
何かのために必要な
「手段」
のはずでしょう?
本来は「その先」のゴールがあるはずで
そのための手段として
スキルやら知識やらが必要なはず。
しかし!
ゴール無しで
沢山の手段を身に付けて
それによってできそうなことをゴール(職業)として選択する?
それ、おかしいですよ。
そういうのがあっても良いとは思う。
そうしたければ、すれば良いのだけど
そういうケースがあまりにも多い気がするのですよ。
でもたぶん
そうなった理由の一つは
「効率」
です。
効率よく
兵士を量産する教育モデルが
効率よく
言われたことができる社会人を育成する
という目的にピッタリだった。
そのための手段が
いまだにフルパワーで回り続けていて
空気のように自然に
当然の環境となっている
そんな気がします。
学校に入ったら
まずレールを敷かれて
言われたことをやる
授業は選択できるのだから
そんなことは無い?
いやいや
結局同じですよ。
大抵の授業は
言われたことができるようになるために
言われたことをやるのです。
皆と同じ結果を出すために。
それができれば
怒られないし
恥をかかないで済むし
留年しないし
面倒は起きない。
結果として行動原理は
ネガティブなことが起きないようにするため
になります。
そうやって手に入れた手段を組み合わせて
卒業前に
「これで何ができるかな?」
と考える。
こういった現状に対して
昔から言われるのは
「今の若いモンは」
です。
違うでしょう。
彼らは環境に適合しているだけです。
アレができなきゃダメ
コレができなきゃダメ
できないとお仕置きが待ってます。
赤点、留年、浪人…
そうなったら当然
お仕置きを受けないようにするために行動するのです。
なんか不健全じゃないですか?
そういうのが好きな人は
そうすれば良いのですが
そうじゃない人に対するチャンスが少なすぎます。
あら、また長くなりそうですね。
続く
