現状の教育には
言われたことができるようにするために
何をやるかを指示しなければならない。
そして
何をやるかは具体的でなければならない。
という「型」があるように思えます。
別にそういうマニュアルがあるわけではないけど
(高校以下にはあるようですね)
なかば常識というか、習慣というか
そういうものだという認識があるでしょう?
そういう「型」が
あっても良い
とは思うのだけど
それしか無い
のであれば問題ではないかな。
ちなみに
「型」は「基準」なので
定量的な評価に向いています。
つまり点数が付けやすい。
もちろん
「型」が無ければ
定量的な評価はしにくいです。
さて
あらかじめ「型」が決まっている
ということは
ゴールがすでに決められているというわけで
ゴールを設定する際
どんなゴールにすべきかを考える
ゴール達成のために
どうすべきかを考える
そういう機会はほとんどありません。
「型」があるので
手段はある程度固定化されます。
その手段で達成できることしかできないのは当然で
「型は教えるが、その他は社会に出て学べ」
ということなのでしょう。
それは理解できる。
昔もそうだった。
しかし
恐らく時を経るごとに
無駄が削減されて
効率化されて
「型」に対して
無駄と思われる経験は無くなっていく。
自然の中で遊びをつくる経験が無くなり
危険な遊具は公園から無くなり
公園で球技ができなくなり
他人が作ったゲームなど
作り込まれた遊具で
あらかじめ決められた「型」で遊ぶ。
無駄は無い
リスクも無い
やる前から楽しいことは分かっている。
楽しくなるように設計されているから。
でも、そこに創造性は必要無い。
「学び」も固定化されている。
無駄なく効率的に教えることによって
手段が強固に固定化される
立場や前提も固定化される
「自分は言われたことをやる立場である」と。
一頃、大学でベンチャー企業を…
みたいな潮流がありましたね。
でも、全く流行らなかった。
そんなの当然で
言われてやったこと(与えられた手段)によって
できることを決定する
というロジックでは
ベンチャービジネスなんて思い付くわけ無いからです。
しかも、失敗しないことの優先度が高ければ
なおさら無理でしょう。
ベンチャービジネスはチャレンジですから。
うまくいく保証なんて無い。
リスク回避の優先度が高く
安定を求めるなら
ベンチャーという選択肢はありえないはずです。
では、現状の「型」を壊せるのか?
勇気が要ります。
それもチャンジです。
チャレンジすれば失敗するかもしれない。
失敗したらどうするのだ?
誰が責任を取るのだ?
となるでしょう。
その場合の
責任を取る
とはどういうことなのか?
責任なんて取りきれないかもしれないけど
チャレンジを続ける
ベターな形にしていくために継続する
それが責任を取るということでも良いのではないか?
どうせ正解なんて無いのだし
改善するための努力や経験は無駄にはならないのだから。
でも、今のやり方による結果の
責任は誰が取るのでしょうね。
誰も取れない
と言えるし
皆が取ることになる
とも言えますね。
教育者はどこまで導くべきなのか?
学生のために
失敗しない道筋を用意するのか。
それとも
自分で道筋を見つけられるようにするのか。
たとえば
クルマが作れるようになりたい
海外のレースに出たい
そう思ったら
まずやってみる。
必要なことが見えてきたら
それを学ぶ。
自分が望むことを実現するために
必要なものを手に入れる。
その過程では
リスクが発生するでしょうし
失敗もするでしょう。
それは今の「型」がある教育から見れば
凄まじく無駄があるでしょう。
でも、チャレンジで大冒険です。
そこから何が学べるのか?
それによって
どう学べるようになるのか?
それは定量化できないので
保証も証明もできない。
でも、比類の無い
貴重で意味のある経験になるのは確かです。
続く…かも。

