自由に伴うもの

興味深いテーマなので何度もネタにしていますが
自由は大事です。

自由は「自分に由る」
「自分で決める」ということです。
自分で決めるのだから
責任は自分にあるのは当然です。

責任を持ちたくないということになれば
自分で決められないということになります。
それでは自由ではなくなってしまいます。

自分で決めないということは
責任は他にあるということになります。

そういうトレードオフです。

なので、いざ「自由にやる」となったら
自分で決めて行動するとなったら
「腹を決める」のが重要なのですね。

責任を引き受けるのは勇気が要ります。
もしダメだったら批判されたりしますものね。

でも、だからこそ分かることや、得られるものがあるわけで
そういう経験を積み上げていくことって大事です。

勇気を育むもの
勇気を持ちたいと思えるもの
そういものを持ちたいと思う経験

そんなことが夢工房にあるべきなのですね。

なんでもルール化すればいいってもんじゃない

我々はルールの中で生きています。
生まれたときからルールがありました。

やっちゃいけないことを決めておけば
不快な思いや危険な思いをしなくて済んだりしますし
やるべきことを決めておけば
皆に都合が良かったりします。

ずっと時を遡って
縄文時代までいったら
明文化された法律みたいなものは無いにしても
きっとルールはあったでしょう。
村の掟
みたいな感じで。

本当は、そんなものが無くても
皆が気持ちよく過ごせれば良いのでしょうね。
皆が他を慮って。

モラル(道徳)で対処できれば
それが一番良いのでしょうけど
なかなかそうもいきません。
人は皆異なる価値観を持っていますから。

さて、仕事ともなると
業務内容をルーチン化することによって
効率が向上するもんだから
マニュアルが登場します。

それにしたがってやれば良い、と。

危険な作業を伴う業務などは
ルールやマニュアルに従うことで
ある程度はリスクを回避できたりしますし
ノウハウをマニュアル化することで
業務の内容が向上したりします。

反面
ルールやマニュアルがあると考えなくなる
という側面もあって
こうなると業務内容の向上は難しくなります。

「言われたことをやればいい」
みたいな感じになるのですね。

これは、行動が問題になるというより
そういうマインドが定着することが問題なのです。

「言われたことをやればいい」
というのは
「人が決めたことをやる」
ということです。

自分では決めない
ということです。

つまり
自由ではなくなる
ということです。

「自由」とは
自分に由る(よる)
ということで
自分で決める
ということですから。

なので、言われたことや決められたことを真面目にやる人が
アイデアを出せなかったりするのは
その辺が理由だったりします。

というわけで
言われたことをやるのが苦手な人は
アイデアで勝負する方向で頑張ってみたらどうですか?

そのために必要なのは
やはり「引き出し」ですね。

なので、とにかく手数(てかず)を増やして
経験の数からアイデアを導き出しましょう。
それしか無いです。たぶん。

人は見たいものしか見えない 2

以前こんな記事を書きましたが
続編です。

視野が狭まっている状態というのは
好き好んでそうしているわけでもなかったりします。

大抵は、何か原因があるはず。

多くのケースに共通してみられるのは
「最低限にしたい」という意識じゃないのかな
と思っています。
ほぼ間違いない気もしますが。

これ、「やらされる意識」に基づいていますね。

「面倒くさい」
が潜んでいたり

言われたことをやる
という行動原理が原点にあったり。

「最低限にしたい」という思いの根源は
大抵ソイツらです。

いわゆる一般的に言うところの
真面目とか不真面目
というのは関係ありません。

でも、皮肉なことにソイツに身を任せると
もっと面倒なことが起こります。

どんどん選択肢が無くなっていって
最終的には
どちらも取りたくないけど
どちらかを選ばざるを得ない
いわゆる究極の選択を迫られます。

まぁ、そうなっちゃったらなったで
仕方ないのですけどね。

結局、「自分」が発動していたら
そんなことにはならないのでしょうけど

皮肉なことに
自分の心が発動していない者は
発動していないことが分からないのですね。

なので言っても通じません。
あぁ残念。

何が言いたいかというと
意外とみんな、自分の人生を生きていないんじゃないか
ってことなんです。

というのも
冒頭に言った
「視野が狭い」
というのも
自分で意識してやっていることではないわけで
自然とそうなっちゃっている
というか
自然にそうなるようになってしまった
というべきかな。

意識せずに
気付いたらそうなっちゃったわけで
自分で選んだ結果じゃないでしょう?

本当は
そういうのをどうするかというのは
自分の意思で決めて、行動して良いわけです。
でも、そうはなっていなかったりするでしょう。

成長過程における環境とか
そういうものによって
受動的に形づくられてしまったわけで
自分で考えて決めたわけじゃないのだから
自分の人生じゃない
そんな気がするのです。

こういう理屈が合っているとか間違っているとかはともかく
みんな、もっと自由に考えて行動していいはずですよね。

以前にも書きましたが、自由はFreedomではありません。

「自らに由る(よる)」が自由です。

不自由な状態を真面目とは思いたくないですね。