キミはどうする?

「どんな風に生きていくか」
なんて言ったら大げさかもしれないけど

多くの経験を積みながらチャレンジしていくのは
「自分はこうする」
を作っていくため。

「自分は…」ですよ。

「普通は」ではないし、ましてや正解不正解という話でもありません。

こういうの、何て呼んだら良いのでしょうね。
個人的な哲学みたいなものかな。

何かをやるときのプロセスの骨組みみたいなものかな。

いや、単に「考え方」で良いかもしれませんね。
行動の上流にあるものですから。

で、知識やスキルは実行・実現のための道具に過ぎないので、必要なら身に付ければ良い。

そんな風に考えています。

もし「自分はこうする」が無くて、「普通は」とか「正解は」といった考え方だけだとどうなるでしょう?

誰がやっても同じになるものを追求することになります。
全く面白くありませんね。
独自性とか競争力も無くて、その価値は最低限になります。

そう、常識的なものや正解を積み上げたところで、行き着く先はつまらなくて価値の無いものになったりするのです。

そんなことは普段考えないかもしれないけど、当然のことです。
普通な当たり前のものに価値を感じたり喜んだりする人はいない。

価値ある製品の開発をする人になりたいなら、この「自分はこうする」を作り上げる必要があるってことです。

これは、与えられた知識を頭に入れて、正解を積み上げていっても手に入りません。
チャレンジして多くを経験しながら、トライアンドエラーで作り上げていくものです。

さて、キミはどうする?

心の時代がやってくる 5

世の中は
能力主義になって
二極化して
世界情勢が乱れて…
予測不可能な領域に突入しつつある感があります。

そんな今、どういう心境かというと…

何とかなるんじゃないかな
とか
少しでも自分にできる範囲でも何とかしないとな
と思っています。

不安が全く無いかと言えば、そんなことは無いのですけどね。
でもまぁ、何とかなるだろ
と思うようにしています。

この先、きっと何かが起きるのですが、それに対して過度に恐れたりするのは無駄なだけでなく、危険です。

危機管理は大事ですが、過度に恐れると視野が狭まって行動に柔軟性がなくなります。
そうしたら、先の見えない未来に対して柔軟に対応しなければならないのに逆のことになります。
解決するものも解決しない、危機管理どころか危機に翻弄されます。

起きることは可能な範囲で「自分ごと」(他人ごとじゃなく)と捉える必要があります。
他人ごとでは、自分には関係ないや、となってしまうから。
そうなったら何もしなくて済むわけで、成長のチャンスや、新しい価値をつくり出すチャンスを逃してしまいます。

あと、恐れを感じると生存本能が働いて、自分の足元ばかりを見て防衛本能も発動して、利己的な方向になる可能性があるでしょうけど、これは避けたい。

というのも、これは大変皮肉な話なのですが、危機を感じて守りに入る場合、普通は自分を守ろうとするわけです。当然ですが。

そんな時に自分が発する価値は、外に向かっていきません。
誰のためにもなっていない。
つまり他者から見たら価値ゼロです。

社会で生きる人間は、自分で自分を守れないのです。
それをやろうとすればするほど価値はゼロになって沈んでいく。
だって、恐れて自分を守ろうとして、自分のことばかり考えている人に価値を感じる人はいないでしょう。

うまくいかないこと、思い通りにならないこと
どうせ…と諦めや文句を言いたくなること
そんなことが増えてくるかもしれません。
しかしそんな状況でも

そんな今だからこそ

と、その逆を行くにはどうしたら良いか?
足元ばかりを見ずに、広い視野で本質を捉えるには?
と考えられるか否かは、知識や学力の問題ではありません。
心の問題です。
それが課題です。
それが何とかなれば、何とかなっちゃうのです。

考えて、決めて、やる

考えて、決めて、やる
人のやることは、基本的にはこうですよね。

でも、便利な世の中では、あまり重視されていない気もしますがどうでしょうか?

あまり考えなくて済む
決める(決断)する必要が無い
あまりヘビーに「やる」必要は無い

でも、便利で快適ってそういうことですよね。
そういう負荷が低減されるのが「楽」ってことですから。
なので「夢が叶って良かったじゃん!」ってなことなのですが、当然ながら「何かが足りない」って感じもするのです。

まぁそりゃそうですよね。
楽ちんってことは、そこに自分の能力や労力とか個性を入れ込む余地は少なくなるわけですから、「誰でもいいじゃん」ってことになるわけで、それがメリットでもあるのです。

世の中には、そのメリットを享受することを追求する人がいる反面、その逆を行く人がいます。

開発の仕事をしたいなんてのは、当然ながら「逆をいく人」であって、便利とか快適とか、価値を作って供給する側の人です。

で、気になるのは、学校での「言われて」「やる」では、社会に出てから必要な、「考えて、決めて、やる」に繋がっていかないのではないかな、ってところです。

だって、「考える」と言ったところで、教科書ベースの理論とか公式とか、すでにやり方が明確化された過去の情報に沿って「やる」わけで、それは考えると言うよりも「作業」に近いのではないかな、と思う。

そしてもちろん何かを自発的に決めているわけではなく、すでにやることは決められていて、「やる」と言っても、それは自発的にやっているわけでも無い。

とはいえ、それらに意味が無いとも言えないので、そうしたい人はそうしたら良いのだけど、リスク覚悟で、自分で考えて、決めて、やってみたいって人にはストレスが溜まるだろうなぁ、と思うのですよ。

ここまで書いてふと思うのは、これは「失敗はネガティブなものである」という価値観で捉えるとそうなっちゃうのかなってことです。

だって、経験も無い者が、チャレンジしたらうまく行かないことがあって当然なのです。
それを避けたいから理論的な裏付けで固めれば、そこには正解しか無いわけで、失敗の経験なんて無くなるよね、とか、効率良いよね、ってこと?

リスクを取ってチャレンジする経験が無いこと自体が失敗ではないかと思うのだけどなぁ。
それに、失敗やら成功やらの中から工夫するとか、色々と幅広い経験をして、一見効率が悪い生き方をしても、最終的にはそれらの経験が活かされるわけだし、だからこそ面白いんじゃないかな。