日本の教育の未来

教育の新しい方向性を妄想してみましょうか。
今回は前編、問題提起です。

学校での学びに対して学生達が持つ感情は…
できればやりたくない
そんなことが多すぎる気がします。

やりたいことがあるであろう学校に行ったはずなのに。

まず、最大の問題は
「やらせすぎ」だということ。

もちろんこれ
内的な動機である
本人が望むことを
ではなく
外的な動機によって
ってことですよ。

やりたいことだって
ゴール不明確のままでやらせたら嫌になりますけどね。

「やらせる」という方向性のままでは
当人の主体性を必要としないどころか
主体性を奪うことに繋がるのは間違いない。

言われたことをやっているだけなら
主体性も創造性も必要無いですから。

仮に、やりたいことをやったとしても
やらされるときのやり方でやってしまうと
成果なんて望むべくもない。

良い成果を出そうと思ったら
やりたいことをやるのが一番。

やりたくもないことを
やらせたところで
たかがしれている。

やらされている状態で
クリエイティビティが発動するわけはない。

やりたくなくなる元凶は何かというと
その多くは外的な動機によって「やらせる」から。

ところがこれ
やらせる方だけに問題があるのか?
というと、恐らくそんなことは無くて
本当にやりたいことがあるわけでもないのに
学校に行っちゃう学生側にも問題があるというか
そういう世の中になってるってのが問題があるのでしょうね。

やらせちゃうのはダメだ
ということになると

やらせなきゃいい
ってことになります。
極端ですけどね。

さて、どうしたら良いと思いますか?

人は欲求の方向に動く

人は、自分の欲求の方向にしか動きません。
そんなお話しです。

人の行動を
ルールやシステムによって
ある程度制御することはできるけど
欲求は外部からはいじれません。

自分を駆動する根源の欲求は意識の外にあったりして
自分でも、よく分かっていないこともあるので
正確には
深層心理の欲求
とか
無意識の欲求
と言うべきかもしれない。

ダメになりたいと思ってダメな状態になる人はいないし
うまく行くように願っていても、なかなか思い通りにならなかったりする。

その欲求は、全て自力で作り上げたものがというと
決してそんなことはなくて
過去の環境の影響も大きいでしょう。

なので
気付いたらそうなってた
ってのが良くあるケース。
というか、普通はそう。

環境で作られたと言うなら
それは自分のせいじゃない
と言いたいかもしれないけど

自身の持つ欲求なので
自分のせいです。
言い逃れはできません。

逆に
自分の責任だから自分でコントロールするのだ
となれば
そこから成長とか改善が始まります。

逆に
自分のせいじゃないから
ってことになると
自分は何もする必要が無いので
何も起きません。

というわけで
まずは自分にとっての「正しい欲求」を定める
ってのが大事なのでしょうね。

これはすなわち
「自分にとっての正義」
みたいなことです。

あとは、それを裏切らないように日々を生きる
ってところでしょうか。

簡単そうで難しいでしょうね。
だからこそ面白いのですけどね。

そんなの本当に面白いのかって?

それをやってうまくいくと
脳内麻薬が分泌されるので
面白いというか気持ち良いはずですよ。

勘の重要性

勘をバカにしちゃいけません。

前職では、良く
KKDで設計すんだよ!
って言われました。

K 勘
K 経験
D 度胸

です。

もちろん
考え無しにやれ!
ってことではありません。

「勘」は、いい加減でテキトーってことではありません。
経験に基づいた直感です。
考えなくても分かる領域ってことです。

何かしら仕事をしていて、それなりの経験を積んでくると
仕事の過程や成果をちょっと見ただけで
「おや?」
と思うことがあります。

じっくり考えなくても
直感的に異常や異変を感じられたり
良さが分かったり
良い作業ができたり
そんなことがあります。

考えなくても分かるとか、できる
ってのが経験による成果です。

そういうのを活かして仕事をしないと
いちいち細かいことから考えなければいけないので
時間や手間がかかって仕方ない。

なので、勘は大事で、そのための経験も大事。
経験の重要性とか、それによって考えなくてもできるようになる
なんてのはこの辺を参照願います。

最後の度胸。
これも大事。
これが無いとチャレンジできませんからね。

知識とか技術を得て
自信や実績が身についたらKKDってのはお勧めしません。
全部一辺に、やりながら養うってのがお勧めです。
だって、勘も、経験も、度胸も、知識も、技術も
全て相互に関係していますからね。

ってな感じで、鋭い勘を養えると良いですね。