ガッツは別に古いものではない

「何かにチャレンジして
できなかったときや
失敗したとき
残念な気持ちになるのだけど

よく考えてみると
心の片隅に
やらずに済んでホッとする気持ちがあって
今まで、それに慣れていた」

そんな話を学生から聞きました。

うん。分かる分かる。
背徳的な安堵感とでも呼ぶべきでしょうか。

それを意識していたり、していなかったり
許していたり、許せなかったり

色々でしょうけど
ヤツとどう向き合って
どう付き合っていくかで
結果は大きく変わるんだよなぁ

なんて思いながら彼の話を聞いていました。

ヤツの存在を無視したり
それに慣れたりするのは

本来
やりたいこと
やるべきこと
があったのに

できない
やらない
ということになるのを
自分で決めてしまっているので
自分への裏切りになります。

自分を裏切ることに慣れるとどうなるでしょう。

色んなことに対して
できる気になれない
ということになるでしょうから
あまり面白いことにはならないでしょうね。

というわけで

望み通りにならなかったときに
心の片隅に現れる、ヤツを放置しないってのは
思いのほか大事なことなのです。

ヤツをどのように扱ったか
それによる結果は
年を追うごとに大きくなっていくはず。

結局、大事なのはガッツってことになるのでしょうね。
最近めっきり耳にしなくなった言葉ではありますが
別に不要になったわけではありません。

基本と言うならここからだ

知識があればやりたいことができるとか
望む会社に入れるとか
そんなの嘘っぱちだ
という話です。

いや、それは言い過ぎか。

今回言いたいのは
知識やら学力やら言う前に
できなきゃならんことがあるでしょう
ということです。

それは例えば…

ちゃんと挨拶する
とか
声が、表情が明るい
とか
元気がある
とか

小学生がちゃんとやっていることです。

基本が…みたいなことを言いたくは無いけど
いや、まぁ、基本か。

そういうのバカにしちゃいけませんよ。

なぜかというと
人は理屈では動かなくて
感情で動くから。

いくら言っていることが正しい
間違ったことは言っていない
としても

暗くて元気が無くて
景気が悪い雰囲気で接してきたら
そんなのは受け入れられないし、従いたくない。

たとえ理屈が正しくても
嫌なものはイヤなのです。

ルールとか
答えとか
そういう形式的なことのみを重視して
人の気持ちを軽視したら
うまくいくはずありません。

明るく元気に人と接すれば
大抵は結果が違ってきます。
当たり前だけど。

嘘だと思うなら試してみたら良いです。
絶対に良い結果が得られるから。

逆は…不可だ

現状の教育現場はどうなっているのでしょう。
どうしたくて、どうなりたいのでしょう?

学校は、学生を同じように仕上げたいし
学生は、皆と同じようになりたい

そんな感じではないでしょうか。

これを
そもそも同じじゃなくていいじゃん
とすると、どうなるのでしょうね。

というのも
学生達は小さい頃から「やらされ」まくっちゃっているので
心の片隅に、「できればやりたくない」とか
「できるだけ楽したい」とかが見え隠れするというか
やらされているときのやり方しか知らないような感じがするのです。
これ、まずいなぁと思います。
というか、もったいない。

そういう私も学生の時分は、そんなものだった気がします。
機械工学科に入りましたが、授業が全然面白くないというか
これを学んで何かができる気がしないというか
実践に結びついている感じが無くて
なんでこんなことやらなきゃいけないの?
これができないと、仕事もできないの?
と、ずっと思ってました。

なので、「できればやりたくない」とか「できるだけ楽したい」
という気持ちになっちゃうのは分かります。

でも、社会に出たら
そんなのできなくても仕事できるな
仕事しながら必要なことを学ぶのが勉強だ!
と実感しましたが。

勘違いして欲しくないのは
知識なんか不要だ
と言うことではないのです。

エンジニアリングするのに工学の知識が必要なのは当然です。

確かに基本は重要で
細かい個別の知識が基本だと言えば基本なのでしょうが

が!

工学の知識があればエンジニアリングできるとは言いきれません。
これに関しては、逆は不可だと思います。

それ以前に
エンジニアリングしようとして壁にぶつかった時に感じる
「工学の知識が欲しい!」
という自身の「思い」とか「気持ち」が重要なのであって
それが知識をモノにしようとする原動力であるべきでしょう。

本当に必要なときには、知識は自然と入っていきますし
そんな時に掴んだ知識とか経験は
そう簡単には忘れません。

原動力がない状態に、知識を突っ込んだところで
利用なんてできないどころか
外力で突っ込まれたものなんて
遅かれ早かれ嫌になるでしょう。

一番まずいのは、その習慣が身についてしまって
「消極的」が、デフォルトの姿勢になってしまうことです。

そうなってしまったら、仮に何かやりたいことが見つかっても
なかなかうまくいかないだけに限らず
なぜうまくいかないのか、自分でも分からない状態になります。

本人は、自分が「消極的」になっていることに気付いていないわけですから。
それは大変不幸なことです。

「消極的」な人にチャンスをあげたり、協力したりする人はいないでしょう。

…と思ったけど、学校は違いますね。
積極的だろうが消極的だろうが
「やらせる」から、そういうの関係ないのですね。

でも、積極的で行こう!
学校では評価されないけど、その習慣を身に付けるのは
社会に出てからでは遅いから。