人の死と、それにまつわる諸々

先週の土曜日の未明、父親が死去しました。
以前から寝たきりで覚悟はできていたので、精神的なショックはさほどでもないのですが、いざ亡くなるとなると、やはり色々と大変です。
昨日は通夜を、今日は葬儀を何とか終えることができました。
まだまだ細かいことは残ってはいますが、大きなイベントは終了です。
そこで思ったことを、ちょっとだけ。

この数日、まさにドタバタだったわけですが、一際感銘を受けたのは、葬儀社の方の仕事ぶりです。
心遣いとクオリティ、スピードなど、見習うところが多々ありました。
人の死に関わる、とてもセンシティブでシビアな仕事を、高いレベルでやり遂げることがマストですから。
彼らは常にプロ中のプロでなくてはならないわけです。
この「常に」は24時間体制ということですから恐れ入ります。

そんな学びがあったのは大変な収穫だったわけですが、やはり人はいつ死ぬか分からないわけで、死んでしまえば数日のうちに小さな壺に収まってお終いだ、ということを改めて実感できた、これも大きな収穫でした。
諸行無常のこの世で、どう生きるべきか。

人の死というのは、究極のネガティブなイベントという印象を持たれがちですが、そこから学べることは実に多い。
目を閉じて、耳を塞いで、思考が止まってしまったら、そこから学べることは無くなってしまいます。

何のための学び? 環境が大事

ぶっちゃけ私の大学は、ずば抜けて勉学のレベルが高いわけではありません。
そもそも実践力重視の大学で、「勉強さえできればいいよ」という訳ではありませんから。

その「実践力」は何かというと、細かいところでは色々あるでしょうけど、大事なものの一つが創造性。クリエイティビティでしょう。
そしてもちろんこれは「やる」を含んでいます。
考えているだけでは何も起きませんから。

特に夢工房であれば、彼らのほとんどはエンジニアを目指しているのですから、なおさらです。

では、クリエイティビティを養うためにはどうしたら良いか。
これはもう、日々考えています。
そして機を見て色々試しています。
もちろん試しても外すことは多い、というか、外れる方が多いかもしれませんが、かと言ってやめるわけにはいきません。

とにかく経験の数を増やすことが重要なのですが
その前提として大事なのは…

やらせないことです

別に禁止するってことじゃないですよ。
「やれ」と言うことによって行動を促さないという意味です。

おそらく多くの人が誤解しています。
「やれ」と言われてやらされて、そのやっていることが好きになることなんてほとんど無くて、逆に嫌いになったりすることの方が多いでしょう。
嫌いなものなんてうまくいくわけないのですよ。

嫌いなことばかりやっていたら、そりゃぁ失敗したくありませんよ。
そもそもやりたいことでなくて、さらに失敗したくないということになったら、最高の選択は「やらないこと」です。
ノートライ・ノーエラー
これは最悪です。

じゃぁどうするか?

ここが難しいところです。
が、現状では、夢工房のスタイルは案外理想に近いのではないかと思っています。

授業ではなく、クラブ活動でもない。

これ、何が良いかというと…

もし授業だと、やらないと単位を取れないわけですが
これは、やらされている状態に極めて近い。というか、ほぼイコール。
なので、なんとか単位を取れる最低限を目指すことになるでしょう。
そしてもちろん失敗を恐れる。

クラブ活動だと、一見自由にやれて良さそうですが、やる自由があるけど、やらない自由もあるというか、緩さを許容してしまう。

「好きなことやるのにシビアにやる必要あるの?」
と思う人は、緩いことをやっても、何ら問題ないのですが
夢を実現するとなると話は別です。

やはり本気じゃないとね。
本気でやりたい、と思える環境が重要なのです。
そしてそれは、教員だけで作れるものではありません。

何のための学び? 「自分事」にしよう

他人事ではなく、自分事にしましょうよ。
と言うお話しです。

例えば、何かの理論があったりして
授業では、それが何に必要なのか実感できないままに「覚えろ」みたいなことになります。
それは何かのための手段なのですが、その「何か」が腹に落ちていなければ、頭に入っていきにくい。
本当に必要だと思っていないものなんて、本気でモノにしたいとは思えないでしょう。
まるで他人ごとのような学びになります。

学校では、それが受験のためとか、単位のため、なんてことになっていますが。
そもそも、受験とか進級とか卒業なんてのは、最終的なゴールにはなりません。
だって、それは手段に過ぎないから。

なので、学校での学びは、手段のための手段を学ぶ
みたいな複雑怪奇なことになっていて
そんなものはそう簡単に腹に落ちないでしょう。

なぜそんなことになっているかというと
汎用的な学びをしなければならないからでしょうね。

要は、色んな分野にまたがったことを勉強することが前提になっていて
具体的なゴールが提示できないのです。

例えば、クルマが好きな学生に、力学とかを教えても、そう簡単に頭に入っていかないでしょう。
クルマを設計するのに力学が必要だと分かっていても、です。

もっと具体的なクルマのビジョンを想像して
その使用用途とか、求められる性能とか、構成する要素…
と、落とし込んで、その末に

「この部分には、こんな力がかかるのだけど、こういう結果が欲しい。
じゃぁ、どうしたらいい?」

みたいなことになれば、かなりやる気になるはずです。
だって、自分が好きなものを構成するための具体的な手段ですから。

で、実際に作って、できたものを試して、出た結果について

「じゃぁ、次はどうしよう」

と考えてトライしてみる。

海外大会に行くなら英語が必要になるし
イベントで事業展開のプレゼンテーションがあるなら、そのスキルも必要になる。

こんな学びがあって良いと思うのですよね。
というか、これこそが学びだと思っています。

我が国は少子化に向かっているのであれば、学びもそれに合わせて
少人数で、より質の高い実践的なものにしていけば
何の問題も無いどころか、より高い価値を生み出せるはず。