エンジニア教育の違和感の正体

あ!あるほど!
と思ったことをお伝えします。
今日の気付きです。

このブログで散々ネタにしている「考え方が逆」の正体が分かりました。

高校の理科系科目を教えているのは理学系の先生。
大学では、理学とかを学んだサイエンス系の人です。

夢工房に来る学生達に限らず
私もそういった人達から学びました。

大学で機械系を含む理系の知識を教える人は、学者さんがほとんどです。
いわゆるアカデミックな人達です。
日本語では、学究的な人と言います。

アカデミックな人達の基本的なやり方は
「なんだ、これ?」
みたいなアプローチで、正体を明らかにしたり
新しいものを発見したりします。
博士号を取るための論文には新規性が求められます。
それには知的な能力が最重要でしょうね。

先生になる人達の多くは、掘り下げたり分析したりするのが得意な人達専門家と言って良いでしょう。
特定の分野を深掘りして追求することが仕事で、その成果が得られる日は特定しにくい。

対して開発者としてのエンジニアのアプローチは
「どうすんだ、これ?」
です。

世に無いものや、やったことがないものをゴールに設定して
決められたときにまでに形にする。

しかし、別に既存の技術を使うことは禁止されていません。
使う要素技術に新規性があろうがなかろうが、さほど問題ではなくて
むしろ、既存の技術をいかに上手に使うかが大事だったりします。

世に無いものや、やったことがないものにチャレンジするのですから
足りない技術や知識が出てきますが
それはやりながら、時には失敗の中から手に入れていく。

ちょっと乱暴な表現ですが、求める働きが実現できるなら、使う技術は何でも良くて
それによって形作られる製品に新規性のある働きがあれば良かったりします。
品質とか性能とかコストとか、いわゆる商品性が重要です。

iPhoneが世に出たときが分かりやすい例です。
使っている要素技術には、ほとんど新しいものは無いけど
製品としての働きや外観などは新しくて、商品としての魅力がある。

要は
エンジニアにも知的な能力は必要ですが
むしろ大事なのは
パワーとか勇気とかスピードとか
文字とか形にできない能力なのですね。

これ、教科書では伝えられないことで
やらないと分からない。

そして
レースってエンジニア教育に最適なんです。

だって、スタートのシグナルが変わる瞬間に
欲しい性能を持ったマシンと、必要なスキルを持ったドライバーが
スターティンググリッドについていなければお終いです。

決められたときに、狙ったものが形になっていること
ということですから。