地頭が良いとか何とか言いますが

よく、地頭が良いとか何とか言いますが
何か違和感を感じるのですよね。

それは、好きでもないことを日々やらされている状態だったり
多くの心配事に翻弄された上での
単一の尺度で評価した結果でしょう。

そういう状態では
なかなか能力は発動しないのではないかな
と思うのですよ。

多くの人は
得意な領域を作ったり見つけたり
そういう機会を得ずに
あらかじめ用意された物差しで
良いとかダメとか判断されていていることがほとんど。

なので、もっと多様性があって良いのではないかと思うのです。

皆が同じことをやって
同じようにできなければいけない
そんな世の中はもう終わってると思うのですが
どうなのでしょうね。

もっとも、色んな人が色んな能力を発揮して力を合わせて
でっかいビジョンを実現できるとハッピーなのだと思うのですよ。

問題を提示してはイカンのでは?

問題提起なら良いのでしょうけど…

学校に限った話ではないかもしれませんが
問題を提示した時点で

「これが問題だ。やれ!」

になっちゃって
言われたからやる
みたいになっちゃうのですよね。

ただ、それが習慣化していると
「そんなもんだ」と思うでしょうけど

言われてやる

言われたらやる
になりかねなくて
言われないとやらない
に転化しがち

そうなっちゃうと、なかなか取り返しが付きません。
だって、楽だし、そもそも本人に自覚が無いから
変えようが無かったりします。

なので学校教育は
自発性が無くても知識を突っ込んでくれる
という利便性の高さはあるけど

自発性を要さないシステムになっているわけで
そんな環境で過ごしてきた学生に対して
「自発性を持て」
とか
何を無茶なこと言ってんだか
という状態になりがち。

そもそも学校の教育観って
教育とは
一方的に知識を伝達するものだ
一方的に受け取り覚えるものだ
となっているでしょう。

義務教育課程の一部は仕方ないのかもしれないけど
学校で問題を提示するスタイルだけで継続するって
思いのほか危険なのではないかな
と思っているのです。

学生達が、自分で問題を作ったり見つけたりするのが大事なわけで
能動的にそれができるのは
好きなことをやっている過程でしょう。

そんな気付きを得られるのも
夢工房の学生達を見ていたからでしょうね。

未来の問題を解決…は間違い

というのは、ちょっと言い過ぎなんですけどね。
ふと思ったことです。

例えば、少子高齢化が問題になっていますが
これを防ぐ
なんてのは、未来に起きそうなマイナスをゼロにするだけの話で
ハッピーではないのではないか?

結果としてそうなれば安心でしょうけど
そこを狙うってのは、どうも違うのではないか、と。

いや、別に安心しても良いのですが
安心を狙うって、意外と難しいのではないかな
という話です。

何とか狙ったラインに到達すれば良いでしょうけど
我々がやることなんて、そうそう完璧には達成できませんから
ちょっぴり不足しただけで達成は難しくなりますし
達成すると得られる感覚が
安心
では、ゴールとして設定するには
ちょっと弱いのではないでしょうか。

もっとポジティブなゴールを設定して
強力な推進力を得られる戦略を取って
その結果の一つとして、それが起きる
としないと、そもそも懸案の解消なんてできないんじゃないか?
と思ったのです。

今回は少子化問題を例に挙げましたが
我々がゴールに設定すべきものは、かくあるべきでは?
と言うのが、今回のお話しの本質なのでした。

どんな未来が欲しいのか
ゴールの、ビジョンの設定が大事だよね
と思うのです。