資質の話

資質とはなんぞや

辞書を引くと、生まれつきの性質とか才能とか、「生まれもっての…」というニュアンスです。
でもそうなると、そこに自分の意思が介入する余地は無さそうです。

じゃぁ、資質は作れない?
どうでしょうね。

資質はどんな働きをするのか?

性質やら才能やらというのなら、無意識のレベルを構成しているのは間違いないわけで
ちょっと分かりにくいけど、無意識のレベルの「考え方」みたいなものでしょう。

無意識レベルに落とし込まれた価値観によって、直観的な判断が行動に繋がる状態と言ったら良いのかもしれない。

これが、遭遇したものごとに対して、反射的に対応できる、といったような感じで、仕事に対して自然に発揮されれば、「資質がある」と言われる状態になるでしょう。

なので、そのような状態になるのであれば、本当の意味での「生まれついての」ということでなくても良いのではないかなと思うのです。

そもそもの「資質」は習慣や環境によって形作られるものでしょうから、同じく習慣や環境で修正が効くはずです。
だって、訓練とかトレーニングって呼ばれるものは、そういうものですから。

考えなくてもできるようになる
そのためにやるのが訓練やトレーニングです。

考え方と行動を変えて、それを習慣化すればOKでしょう。

カギになるのは知能やら知識ではなく、望む行動を駆動するパワーや決断力でしょう。

尖ってないとね

スイスアーミーナイフってありますよね。
多機能で便利なナイフです。
古い言い方だと、十徳ナイフと呼んだりもしますが。
スイスのビクトリノックスのものが有名です。赤いグリップのヤツ。

これ、色んなことに使えるのだけど、それぞれの機能がさほど優れているわけではないです。
缶切りも栓抜きも、個別の道具に比べれば、どうも中途半端な使い心地だったりします。
挙げ句は、ナイフ自体も中途半端な使い心地。

でも、それは仕方ないことです。
往々にして、色々できるようにしちゃうと、何かしら妥協をせざるを得ないから。

レーシングカーもそんなものです。
ある特定の使用法に特化していますから、それ以外の使い方をすると、すこぶる使い勝手が悪かったりします。当然です。

じゃぁ、色々使えちゃう乗用車はどうなのでしょう?
日常使いの使い勝手とか、安全性とか、コストとか、それはもう凄いレベルで開発されています。
でも、ある範囲のユーザーの使い勝手を想定して開発されているので、その範囲外では使い勝手が悪いこともあります。
もちろん、純粋な走行性能でレーシングカーに敵うはずはありません。これまた当然です。

さて、今回何を言いたいかというと
別にまんべんなく色々できなくてもいいじゃないの
ということです。

「色々できると選択肢が広がる」
なんて意見があって、一見それはもっともな気がしますが、そうでもないことが多いですよ。

それは、就活などで考えると分かりやすいかもしれません。

特に何ができるわけでも無いけど、そこそこまんべんなくできたりする人を採用するのは難しいです。
だって、特徴が無いなら選ぶ理由がないからです。

それに、まんべんなくそこそこ色々できる人のゾーンってのは、多くが狙うところなので、過当競争のまっただ中に突入することになります。

結果、「中途半端に色々できでも選ばれない」ということになる可能性があります。

さらに言うなら、勉強ができるというのと仕事ができるというのは全く別の話です。

なんでもかんでもムチャクチャできる、というなら話は別でしょうが。

これ、「ボチボチのところで妥協しようぜ」という話ではなく、戦略の話です。
就活向けの戦略と言うより、生きるための戦略と言っても良いかもしれません。
自分自身の価値の作り方です。

なんでもそこそこできるのも良いけど、そのゾーンで優位性を発揮できる自信が無いなら、何かに特化した、尖ったところを狙のが良いでしょう。

すでに「やるべき」と決めたものがあるなら、そこに力を入れ続けるのが良いでしょうし、何も無いなら、何かピンと来たものに手を付けて、継続するのも良いでしょう。

気をつけて欲しいのは「探す」は案外危険だということです。
こんな時、何を探すかというと、大抵は「今の自分にできそうなこと」でしょう。

これ、今の自分にできるなら誰でもできそうなことだったりしますし、そもそもそんなものは見つからずに、時間を浪費することになるのも良くある話です。

ピンと来たものがあるなら、それこそがチャンスです。
最初はうまくいかなかったりするなら、それは誰がやってもうまくいかないことだったりもするわけで、あまり気にする必要はありません。むしろチャンスです。

何をやるかってのも大事かもしれませんが、諦めずに継続できるってのは、仕事をする上で最も大事な資質の一つですから。

継続して磨き続けていれば、きっと尖ってきますよ。

とは言うものの、学生であれば特定の単位を取らないと、進級や卒業が心配だったりするでしょう。
それらをやっつけながら、ということになるので、なかなか厄介ですね。

依存関係の難しさ

他人から必要とされたい
という感情は誰しも持っているでしょう。
それ、感情なのか?とも思いますが、この際細かい分類はどうでもいいのです。

他人から必要とされたい
というのは、他から依存されたいということでもありますよね。
それが人の価値に繋がるわけで…というか、価値そのものだったりするわけで
集団の中で生きていくための方法の一つでもあるでしょう。
なので、本能的なものなのかもしれません。

結局、我々は大なり小なり他に依存しながら生きているわけで
子は親に、学生は教員に
国民と国家など、個と組織という関係もそうでしょう。
小さいものが大きいものに一方的に依存しているとは限りません。

個が存在しなければ、組織は成立しない訳で、双方向ですよね。
学費を払う学生がいてくれないと、教員の存在意義とか価値なんて無いでしょうし。

依存されていることが単に負荷になっているかというと、確かにそういう側面もあるけれど、全く依存されないと存在意義が感じられなくて寂しいことになります。

依存される方は
「しょうがねぇなぁ」
とか言いながら、期待に応えることにより、自分の存在意義とか価値を感じていたりもするわけです。
いわゆる「頼りにされている」という状態ですね。

なので、単純に依存が良いとか悪いとか、そういう話ではなかったりします。
依存の反対の「自立」は、カッコよくて響きが良いので、「依存ってダメだ」みたいな印象を持たれがちですが。

難しいのは、何をどの程度依存するかによって色々と結果が違ってくるだろうということです。

例えば
親が子のために何でもやってやる
とか
先生が学生のために何でも教えてやる
なんてことをすると、必要なもの、欲しいものを手に入れるための努力や工夫は最低限になって、大げさな言い方かもしれませんが、生きる力というか、生きるための知恵が手に入りません。

「くれ」と言ったらもらえるとか、言わずとも手に入るなら、努力とか工夫なんて必要無いからです。
依存によって求めるものが容易に手に入ることに対して喜びを感じてしまったり、それがデフォルトになっているなら、自分の力で苦労して何かを手に入れる充実感を感じる経験をするのは難しくなるでしょう。

往々にして、単なる依存によって手に入るものって、大したものでは無かったりするのですけどね。

でも、依存によって環境に存在するリソースをうまく使うというのも重要です。
人だったり、ものだったり、情報だったりしますが。
もし、全てを自力で手に入れるなら、我々は原始人からリスタートしなければなりませんから。

なので、何をどれだけ依存するかというのは結構重要なことだと思うのです。

もちろん、その対価として自分は何を提供するのか、というのも同じくらい重要です。