今の教育の問題点

今の教育は、動機が不完全な状態で領域を絞った上で、専門知識だとか言いながら、なんでもかんでも言われたことを知って覚えてそれでなんとかなるだろう、みたいな受け身の人間を量産するようなやり方になっている気がします。

一方的に言ってやらせて、覚えさせて。

かつては、そういうのが汎用的な教育ってことで潰しが利いたのかもしれませんし、「従順」ってのが評判が良かったのかもしれません。

今後も、そういう人がいても良いのかもしれませんが、そのやり方一辺倒ではあまりうまくいく気がしません。

だって、動機が不完全な時点でどうかと思うし、競争力が無いやり方でやったところでモチベーションは上がらないだろうし。
そういう言われたらやるとか、単にメモリの内容を吐き出すような「作業」は、むしろAIに任せるべきでしょう。
そして人間は「作業」の先をやるべきです。

それに、従順で受け身の人を国内で量産するのは結構ですが、では一体誰が彼らにタスクを「放る」のでしょうか。

国内で「受ける人」と「放る人」のバランスが取れないということになったら、他国から「放る人」を連れてくるのでしょうか。

知識や知能を否定する気はさらさらありませんが、それらが活きるのは駆動力が発揮されてこそです。

クルマで言うなら、いくら驚異的な性能を持ったエンジンや車体があっても、それを駆動力を路面に伝えるタイヤの性能が低ければ全く何も起きません。
1万馬力のエンジンが搭載されていても、タイヤの性能がゼロなら、実質的なクルマの性能はゼロです。

知識とセットになるべき駆動力、パッションとか行動力とか言うべきものでしょうか。総じて人間力と言うべきかもしれません。それらは、両輪として働くべきで、どちらか一方じゃちゃんと走れないのです。

恐らくそんなことは多くの人が気付き始めていることでしょう。
ただ、試してみたり実際に行動するには勇気が必要だったりするわけで、ダメかもしれないけどやってみるなんてのは、これまでの価値観に反することでもあるでしょう。

でも、今までと違ったことをやらない限り、違った結果は起きません。

今、満足いってますか?納得できてますか?
それは今のやり方の結果です。
なので、やり方を変えなければ今のままです。
それでも良いですか?

誰かが何とかしてくれるなんて期待しない方が良いです。
恐らく誰も思い通りになんてしてくれませんから。
というか、できない。

先の見えないこのご時世、価値観が変わるほどの変化が待っている可能性が大きいです。
そういう場合、事が起きてからマッチングを取るのはとても難しいはずです。
だって、今までと異なる未来なら予測が付かないのだから当然です。
そんな予測が付かないものに対してマッチさせるとかフィットさせるなんてのはとても難しいこと。

であれば
自らチャレンジして未来を切り拓いていく
これでしょう。
チャレンジが大きいか小さいかはともかく、そういったことに価値が出てくるはず。
というか、それは時代に関係なく価値を生み出す普遍的な方法なのですけどね。

カッコよく言うと難しそうな気がしますが、本質は単純です。

とにかくやってみなはれ

ということです。

良い子のパラドックス 行き詰まった時に

いわゆる良い子が、うまいことやろうとして逆にうまくいかなくなることがあります。
今回はそんなお話し。

良い子を吊し上げるネタが多いのは、私が持つコンプレックスのせいです。
というのはあながち冗談で無いかもしれないのですが、やはり学校では、良い子は評価されがちな反面、そのやり方じゃうまくいかんだろうなぁ、と感じることも多々あるわけで。
そういったもったいない状況を何とか改善できないだろうか、と日々思うのです。

さてさて、では本題に入ります。

何かを開発するようなミッションを遂行するようなときに良い子の特徴が現れます。
まず考えるプロセスから始まりますよね。
そんな時、いわゆる良い子は失敗したくないと考えることが多いようです。
「体面を保つ」みたいなことなのでしょうかね。

度合いは人それぞれですが、失敗したくないという感情によって、言ってみれば恐怖が動機になって行動することになります。
なので、視野は狭まり体はこわばり…というのは言い過ぎですが、あまりポジティブな状態ではなくなります。
そういう状態で良いアイデアを出すというのは無理ですね。

そもそも、失敗しないことがゴールになっているので、うまくいくためのことを考えていなかったりもします。皮肉です。

それに「失敗しない」というワードの「しない」=「やらない」が深層心理の駆動力にもなりそうですね。

失敗しなければそれは成功だ!みたいな訳の分からないことになっていたりもします。
もちろん、その状態で自分のミッションと照らし合わせるとズレが生じているわけで、「いや、そうじゃないよな」と軌道修正を試みるも、どうにもしっくりこない。
そういった状態がループになって、延々と考え続けることになったりします。

そのループから出られないのは、やらないと分からない事をやらずに分かろうとするからとか、何事も正解を得てから、というのが原因であることが多いです。
もちろん「失敗しないために」ですね。
そういう環境で育ってきたら仕方ないとは思います。
私も身に覚えがありますし。

でも、その価値観でいくとチャレンジはできません。
チャレンジするということは、失敗も含むことをやることです。
何が起きるか試すのなら、うまくいく保証はありません。
そこにうまくいく保証みたいなものを求めちゃうと前に進めなくなります。

新しいものをつくるとか、新しいことをやるのだから、何が起きるかはやってみないと分からないのです。
というわけで、行き詰まった時に大事なのは「何をやってみるか」だよなぁ、と思うのでした。

とにかく進もう!

主体性とか、ハングリー精神とか、批判的思考とか…
色々と今の世代に求めるのは良いけど、今まではそれらが必要無いようにしたかったわけですよ。

言われたことをやるように、余計なことをやらないように、失敗しないように…
で、彼らは従順で真面目になったのですよね。
期待通りじゃん!

とまぁ、毒を吐いてみたところで、何も良くなりません。
ものごとには多面性があるし、世の中も変わっているのです。

でもまぁ、この事象で分かるように、世間や学校から求められるものはありますが、その結果がどうなろうと誰も責任は取ってくれません。

文句を言うのも勝手ですが、それによって何が変わるわけではありません。
むしろそんなことに文句を言わない方が良いと思います。

と言うのも、文句を言うと言うことは「俺のせいじゃねぇ」ということであって、その結果何もやらなくて済むのです。
だって「俺のせいじゃねぇ」のだから。

気持ちは分かりますが、何もしない自分は全く成長できませんし、誰の役にも立たなくて、誰も喜びません。

というわけで、先の見えない世の中ではありますが、今後どうしていきたいかを考えて、そのためのことをやり始めましょう。
早く始めれば、その分先に進めますし、分かることが沢山ありますから。

何をやったら良いか分からないって?

なるほど。
こういう状況では、とにかく思い付いたことをやってみるという姿勢が良いのです。

とはいえ、躊躇する人、立ち止まって考えてしまう人はいますよね。

それ、うまくいく確証が持てないから動けないのでは?
失敗したくない?

でも、先が読めない状況なのですから、何の保証も無いし、正解なんて無いのですよ。
そういう状況は立ち止まるのは無駄です。

猛獣に追いかけられているのに、分かれ道のどちらに進むのが良いのか立ち止まって考えているようなものです。

どうせ正解なんてありません。
やれば何かが見えてきますから、沢山経験して「自分はこうする」というものを作り上げるのが良いと思うのですが、どうでしょう?

え?そこで悩んで立ち止まる?