ものごとを悲観的に見るのは真面目である
もしくは
真面目な人はものごとを悲観的に見るものだ
なんかそんな風潮がありませんか?
少なくとも学校ではそういう風潮がある気がします。
これ、昔からなので
別に最近の若者がどうのということではありません。
私の世代だってそんな感じだったし
さらにその上の世代だって同様でしょう。
実は、それにはメリットがあるのです。
悲観的なら
一見頭が良さそうに見える上に
やらなくて済むからです。
あと、白黒はっきりさせて
結論を急ぐのも良くありませんね。
そうすると
一見、効率が良くて
早期に答えが出る(仕事が早い)
ように見えることがあります。
でもそうなると大抵は
思考の幅が狭まって
良いアイデアが出ません。
でも、これにもメリットがあります。
たくさん考えずに済むのです。
でも、幅の狭い思考では
そもそも良いネタは揃いません。
恐らくこんなふうになっちゃうのは
「やる」経験が少ないからじゃないかな
なんて思うのです。
考える機会はたくさんあるのでしょう。
それはもう嫌ってくらいに。
でも、行動の量とのバランスが取れていないので
「どう考えるべきか」という
「考え方」が洗練されていかないのではないかな。
それは考えてばかりでは見えてこなくて
「やる」から見えること、気付くことが
たくさんあるのだと思うのです。
考えることばかり要求されていては
そりゃやらなくて済む方法を考えたり
効率を上げたくもなるでしょうに。
まぁ、そう言っている本人が
それほど洗練されているわけでもないのですが
その辺の関係性は想像つきます。
なぜって、出来が良くないからです。
「なんで自分は出来が良くないのか?」
ということと
仕事をしていて
うまくいったときの情況を考えると
その辺が見えてきます。
出来が悪い人間が
手を替え品を替え
色々チャレンジして
脱出口が見えたときに分かることがあって
恐らく頭が良くて
少ない手数で何でもできちゃう人は
その辺のセオリーみたいなものが
分からなかったりするのではないかな。
でも、今のやり方
「たくさん考えて”やる”を軽視する」
やり方は
ボチボチ限界でしょう。
というか、違うアプローチがあって良いと思うのですよ。
学習要領みたいので画一的に縛り上げて
皆に同じようなことを考えさせて
本当に大丈夫なんですかね?
何がって、本人も含めた世の中がですよ。
って、今さら聞くまでもないのですが
それをさらにギンギンに縛り上げていきましょう!
って行っちゃいそうな気がしてなりません。
何やら先細っているところに
どんどん追い詰められているような。
多くの学生にしてみれば
短期的に自身が高く評価されることが重要なのであって
そんなのはどうでも良いのかもしれません。
でも、数年後に社会に出たらどうなのでしょう?
そこで本当にハッピーになれる考え方を教えておくべきですよね。学校は。
知識ばかりじゃなく
「やる」方にもうちょっとウエイトを掛けていけば
自身で気付けることは格段に増えるはず。