常識と自由

要求された正解を求める

正解が出れば安心。
それは現在の我が国の学校においては当然のことで、最も価値があることとされている。

でも、それは本当か?
これからもそうなのか?

そもそも究極的に、あらゆることには絶対的な正解があるのか?

当然、無い。

しかし、テストの問題のようなものには正解がある。
そうじゃないと点数を付けて評価できないから。

そういった勉学のような、知識を獲得する過程におけるものは手段的なものなので、ある程度結果が明確でなくてはいけないのは確か。

ただ、そこにたどり着くプロセスは自由なはず。

何かをするための手段であれば、その結果が明確でないと困ってしまいます。
やったら何が起きるか分からない…では、その手段は使えません。

学校でやっているお勉強は、そういった手段的なものです。
決して目的ではないはず。
ましてゴールでもありません。

何かのためにどんな手段を用いるか
その手段を用いる目的
最終的にたどり着きたいゴール

本来それらは自由なはず。
自分で決めるべきものです。

その自由を奪うのは目的がある。
もちろん自由を放棄したとしても、それにも目的がある。

その目的は常識という名の、目の前にあるのだけど誰も興味や疑問を持たない領域にそっと隠されている。

我々の常識は違う環境、例えば、異なる仕事、異なる国、異なる時においても通用するのか、というと、決してそんなことはない。

自由が不自由に勝るのか

それは分からない。
自由も不自由も、当然一長一短。

自由を求めるか否か、何に自由を求めるか、それこそも自由。

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