必要ないものは手に入らない

チームワークとか、それに伴うコミュニケーション能力とか、そういったものは社会で活動するには必須ですよね。

今の世の中、個人だろうが国だろうが、孤立したら破綻します。
逆に、皆で力を合わせれば、相当なことができますよね。

ところが学校では、チームワークの経験が十分に積めているかというとそんなことはなくて、コミュニケーション能力なんかも、その有用性を実感する機会が十分にあるとは言えない状態ではないでしょうか。
もちろん、コロナ禍の影響は大ですが。

学校における教育では、個の知識や能力を身に付けることに重点を置かれていて、各人が同じようなことを決められたレベルになるよう、あらかじめ決められた内容やスケジュールで進められます。

皆が同じようなことができるのであれば、チームは必要無いでしょう。
別に多くが集まったところで、生産数が増えるだけです。それにってコストダウンなどはできるかもしれませんが、より高い付加価値とか、独自性を得ることには繋がっていきません。

そう、このやり方は低コストの大量生産にピッタリなのです。
しかし残念なことに皆さんご存じの通り、現在の日本はそのレベルをとうに突破してしまって、人件費が高く、人が少ないという状況になっているわけです。

なので、産業においては、皆で同じようなことをやると、国際社会では競争力が無くなって破綻するでしょう。
その程度のことは、私ごときでも想像が付きます。

なので、強い個性や独自性のある能力を持った個人が集まって、それぞれが様々な役割を担って、組織の力を最大化することが今後のカギになるのは間違い無いでしょう。
必要なのは、独自性のある尖った能力です。

しかし、そういう尖った連中があつまると、往々にして収拾付かなくなるわけで、そこでチームワークが重要になってきます。

で、ここで理論としてのチームワークを教えれば済むかというと、そういうことはありません。
だって、理論って皆が知ることができることでしょう?形式知ですから。
なので、理論で教える内容自体、独自性が無くて、競争力が無いということも言えますよね。
まぁ、基本は大事なのですが。

じゃ、どうする?

やってみれば良いのですよ。
自分達でゴールを設定して、それを達成するというミッションがあれば良いでしょう。

そこでは、うまく行ったり行かなかったりするでしょうけど、その経験を通して大事なことを学ぶことができます。やってみないと分からない経験知です。
それに、やる中から思いがけないアイデアが生まれる可能性もあって、それが独自性などの価値に繋がっていくでしょう。

チームワークは、必要になる状況を作れば手に入ります。

コミュニケーション能力については、その内容と重要性が誤解されています。たぶん。

会話で間が空かないようにとか、話が盛り上がるようにとか、相手に失礼が無いようにとか、そんなスキルだと思っていませんか?

そういうのもあって良いかと思いますが、それは日常生活でボチボチ手に入れれば良くて、学校で取り組むべきなのは、自分が望む未来の姿にとって必要なコミュニケーション能力を獲得するべきでしょう。

だって、それが無いと仕事できませんもの。

例えば、夢工房のようにエンジニアリングを学ぶのであれば、それに必要なコミュニケーションがあります。

エンジニアリングとして仕事をする多くの人が新人の時に経験する「結論から話せ」とか、そういうことです。

なぜ昔から新人が同じことを言われ続けているかというと、そういう経験が無いからです。
学校で「順を追って話せ」とかやっちゃっているからではないでしょうか。
桃太郎の話の例

それが必要だと思う経験が無かったら、手に入るわけないのです。
学校で、必要が無いと思っていることを教わったところで、生きた知識として活用できる形には残らないのは、必要だと思えないからです。

なので、この先に行きたかったら、いかに自分が必要だと思えるかとか、そういう環境や機会を作るかというのが最重要なのではないかと思うのです。

でもこれ、勉強できちゃう人には理解できないのかなぁ、とも思うんですけどね。
日本の人口のうち、何割が「勉強できちゃう人」なのでしょうか。
その人達だけで国を回していくわけにはいかないでしょうから、多種多様な人達が力を発揮できるやり方を模索しても良いのではないでしょうか。

うまくいけば、多くの人が相互に感謝しあうことができる良い世の中になるのではないかな。

セーフティネットの難しさ

学生には、どんどんチャレンジして欲しいのです。
それが自分のためになるのはもちろん、ひいては世のため人のためになるのですから。
なにより、いつも同じ、ずっと同じじゃ面白くないじゃん。

で、チャレンジできる環境が重要となるわけですが、人間って難しいです。

チャレンジできる環境というのは、安心して全力でチャレンジできる、平たく言うと安心して失敗できる環境とも言えると思います。
いわゆる「セーフティネット」ってヤツですね。

どうやら脳科学的には、この安心感が無いと、感情とか学習とか、体の機能なんかも十分働かないようなのです。
私はその手の専門家ではないので、ここであまり深掘りはしませんが。

で、この安心感が問題です。

好きなことを夢中でやっている中での「やる方」での安心感なら良いのですが、変化せずに済む方の安心感を選択してしまう場合も多いのです。やらなくて済む安心です。
これを自然と得ようとしてしまう。習慣ってことですね。

まぁ、分からなくも無いのです。
というか、劣等生だった私には良く分かります。
学校でやることなんて、最低限にしたいのですよ。

というわけで、こういうのは以前からあったことではありますが、コロナ禍でのチャレンジできない環境でブーストが掛かった気もします。

しかし!
好きなことをやっているチャレンジすべき状態においても、変化せずに済む安心を求めるやり方をしてしまったりすることがあるのです。それも自然と。

これ、本当にもったいなくて、残念で、気の毒なことなのですが、習慣が原因となるとなかなか厄介です。
だって、本人は意識していませんから。

でも、解決策は、ものづくりの中にあると思うのです。
できた「もの」は、自分自身の投影ですから。

好きなことをやって、何かを作れば分かるのです。
「あぁ、今の自分って、こうなってるのか」って。

ただし、真剣にやっていれば、という前提が付きますが。

ってなことが、ものづくりのコンペティションに取り組んでいる夢工房の学生達を見ていると、良く分かったりするのです。

一応言っておきますが…
地面のすぐ上に張ったロープの上を綱渡りするのにセーフティネットは要りません。
高所の綱渡りに必要なのです。

自己評価は能力ですよ

「やれ」って言えば「やる」
そして「できる」ようになる
できるようにするためには、「やれ」と言ってやらせることだ
と思ってたりしますが…どうなんですかね?

確かにそれも一理ある、という気もしますが。

次の成長段階では、望む理想に対して何が不足しているのかを自覚して、それを自力で取りに行くこと。これが自ら学ぶと言うことでしょう。

それには理想が必要です。「何のために?」です。
そして、理想と現状とのギャップを自分で認識して、それを自力で埋めたいと思うことが必要です。

やっていることに対する他による評価も大事で、大いに利用すべきですが、自己評価ができることは重要です。
この場合、何をやっているかというと、自分が取り組んでいる現状や成果を客観的に評価するということをやるわけなのだけど、これは「このままやったらどうなるのだろう?」とか、「他からはどう見えるのだろう?」とか、「相手はどう感じるのだろう?」というようなシミュレーションですよね。それによってその後の方向性を決めたり、価値を見積もったりということをしたりするわけです。

それができるよになると、「良いもの」「価値あるもの」を作るための能力を一つ手に入れたことになります。

で、そういう能力を持っているのは、やりたいことをやってきた人だったりします。
やりたいことをやって、満足とか喜びを得たいなら、自ずと自己評価が必要になりますから。

対して、言われたことばかりをやる場合、自己評価はほとんど必要ありません。
だって、言った人が評価するのだから。
だから、自分で「自分がやったことがどうだったか?」なんてことは良く分からなくなっちゃっても仕方ないんですよね。
これ、結構恐ろしいことじゃないでしょうか。

今回は「自己評価」なんて言ってみましたが、多くの場合、特に学校では「反省」と呼ばれますよね。
そうなったとたんに、暗い顔で俯いて「もうしません」みたいな感じになっちゃいます。
そんな状態で、ものごとは良くならんでしょう。

うまくいかなかったり、やらかしてしまったら「で、どうする?」が大事なわけで、下向いて思考停止しても、何も良いことはありません。