やはりアウトプットが決め手だ

学校にいるとインプットばかり鍛えられるわけです。
テストなんてインプットの確認にすぎません。
確かに解答用紙にアウトプットしているけど
それは形式が決まっていてクリエイティブではありません。
アウトプット能力を鍛えるチャンスは、なかなか無いのです。

現状の自身の能力とかパフォーマンスを確認すれば
その先どうしたら良いかが分かるのですが
そのためにはアウトプットが必要になります。

アウトプットの回数が多ければ
それだけ成長のチャンスが増えるのです。

ものづくりのフィールドであれば
単に思い付いたことを言う
から始まって
図面を描くとか部品を作るとか
やることなすことアウトプットばかりです。

なので、とにかく考えて作りまくる
というのが成長の早道だったりします。

もちろんその過程では
ダメなものもたくさん出てくるわけですが
それは単に現状の自分自身を表しているわけで
現状が分かったのなら
変えれば良いだけの話です。

加えて言うなら
何がダメかも分からないのに
良いものは作れません。

何がダメなのか
どうしたらダメになるのかを知るのは
とても大切だったりします。

しかし一般的には
環境がダメなことをやらせてくれないので
何がダメなのか分からないままで
分からないからできないままです。

ますますダメなことを避けるようになって
ますますできないことを恐れるようになります。

当然、本人はダメなことをアウトプットしないように一所懸命考えるのですが
経験が無いのにいきなり良いものができるわけないのです。

結果…
できないまま終わる。

ダメなことをアウトプットするのがダメなのではないのです。
アウトプットできないことがダメなのですね。

学生は面倒を嫌うので
ダメなことをやりたくないわけですが

ダメなことをアウトプットされて
それを何とかしなければならない教員側だって面倒を嫌うわけで

双方とも面倒を嫌っていたら
いつになったらどうにかなるのさ?
ってな状態です。

私思うに

教員が「何とかしなければならない」
という前提がそもそもおかしいのであって

学生自身が「何とかしたい」と思わない限りは
どこまで行っても何ともならんのではないかと。

ただし、教員が学生の心に手を突っ込んで改造するわけにも行かないので
やはり環境が重要なのでしょうね。

学びの本質

学びって何だろう?

極端で簡単な言い方をすると
考えずに動けるようになること
その練習だと思います。

何かをやる
って、大抵は目的があってやるのだけど
考えてノロノロ動いていたら間に合わないとか
考えてノロノロやってたら意味が無いとか
そういうことは多いです。

それに大抵の場合
やると言っても
色んな要素が複合されたものです。
なにか一つをやれば良いということは少ない。

例えば、車を運転する
なんてことでも良いのですが
やることが色々あるから難しいのですよね。

車に乗り込むところから始まって
シートやミラーの位置を合わせたり
シートベルトをしたり
エンジンを掛けたり…
やたら多くの動作があるでしょう?

そんなの一々深く考えながらやっていたら
あっという間に一日が終わっちゃいます。
それは極端すぎるか(笑)

ものを作るのだって同様ですよ。

音楽家だって
いちいち五線譜の音符を指で追いながら音を出していたら
音楽にならないでしょう?

なので
トレーニングは、構成する動作を何度も経験して
考えずにできるようになるためにやるのです。
それが学びです。

それがある程度できると
その先が見えてくる
そうしたら、そのレベルで何度もやる
そんな感じです。

「考えずにできるようになるために何度もやる」
これが本質です。

ということは
「何度もやればうまくいくようになる」
ということなので
経験の数が重要
それを増やすためには
スピードが重要
ということになります。

開発者でも
イケてる人は、すぐやる人です。
これは
「イケてる人になったから
すぐやるようにした」
というわけではありません。

ここで
「基本が大事だ」
とはあえて言いません。

なぜかというと
必要かどうかも分からない
「基本」と呼ばれるものに時間を費やすのは
無駄だと思っているからです。

もちろん
必要だと思ってる「基本」は
徹底的にやるべきでしょうけど。

大事なのは
ゴールを設定して
そのために必要なことを一所懸命やることです。

そうそう!
考えるのは大事なことですが
いつも考えてから行動していたら間に合わないわけで
チャンスを掴めない人も行動原理は似ています。

チャンスかどうか分からない何かが目の前に現れたとき
それを掴めるかどうかは
すぐに手を伸ばせるかどうかで決まります。
考えていたら間に合わないから。

こういうのって
経験に基づく嗅覚とか勇気とか好奇心とかが重要で
知能で決まるものではないのでしょうね。

ほら、「経験に基づく」ですから
やはり経験の数なわけで
スピードでしょう!

環境問題に思う

以前にも環境問題についての記事を投稿しましたが
今日もふと環境問題について思ったのです。

今、一番ホットなのは地球温暖化で
CO2の排出が原因だ、と。
他にもメタンガスとか
色々と原因になるものが挙げられたりしていますね。

「地球温暖化なんて嘘っぱちだ」
なんていう意見もありそうですが
他にも環境問題はあるわけで
この際、細かいことはやめておきましょう。

今日思ったのは
CO2とか細かいことにフォーカスしても
結局問題は解決しないのではないか
ということです。

問題の根源は
CO2をたくさん排出してしまう
我々の社会の構造
果ては文化や文明にあるのであって
そこから生じる問題の一つである
CO2にフォーカスしたところで
結局は似たような問題が出てきちゃうんじゃないの
なんて思ったのです。

人は生きているだけでも
CO2を排出します。

ものを作って、売って、買って…
そんなことをやれば
もちろんCO2は排出されます。

多くの場合
それらを消費したり使用したりする際にも
CO2が排出されたりします。

いわゆる文化的な生活をする限り
そこから逃れることはできないでしょう。

誰もが豊かな生活をしたいと願うでしょうけど
それが物質的に「豊か」ということになると
それはつまり「余裕がある」ということです。

「余裕が欲しい」のであれば
「よりたくさん欲しい」
みたいなことになります。

作る側、売る側にしたら
質も量も向上・増加していく必要があります。

それが「豊か」ということです。

そりゃぁCO2どころか
色々余計なものが出ちゃったり
エネルギー消費が増大したり
そういうことになるのは当然でしょう。

天然素材を使うとか
リサイクルするとか
やらないよりは良いというか
やるべきなのでしょうけど
本質的にはそういう問題ではないでしょうね。

どうして今のような状態になっているかというと
ある特定の価値を追求するからでしょう。
前述の「豊かさ」なわけですが。

今の価値観の方向性で行く限りは
持続可能な社会を構築
というわけにはいかないのではないでしょうか。

そう、結局は物質の問題ではなく
心の問題であって

何を「豊か」とするのか
という問題なのだと思います。

このままでは環境が持続できない
ということは、その豊かさが
地球上で唯一孤立している生物である
我々人間だけのための
利己的な方向を向いているからに他ならないわけで
それは我々の心に原因があるに決まっています。

まぁ、調子に乗ってやり過ぎちゃったら
困った状態になるのは当然でしょうから

いい加減にしろ
って地球に、宇宙に言われてるような気がします。

ビッグチェンジしないと死ぬぞ
ってことになったら
するしかないでしょうね。

…しなかったりして。

さぁ、我々人類はどうしていくのでしょう?
他人ごとではありませんけどね。