考え方が逆…の正体

本日の気付き

想像力が育まれない正体見たり!
というのは大げさかもしれませんが。

学校でのお勉強は
問題から、すでにある答えを導き出すものが多いわけですね。
というか、そういうのばかりです。

「これはどうなる?
といった感じです。

問題を解くってそういうことでしょう?

すでにあるもの(目に見える問い)を与えられて
やっていったらどうなる?
ですよ。

答え(ゴール)は固定されたままです。
見えない形に隠されているけど
すでに決まっています。

目に見えるものを与えられて
それを処理していって
結果としてゴールが現れる。
そしてそれが合っているか否かが評価です。

多くの場合は
すでに習った解法に従って
すでにある答えにたどり着くわけですが。

なので、そこにクリエイティビティはありません。
「全く無い」と言ったら言いすぎかもしれませんが
言っちゃっても良いくらいです。

なぜそのようなやり方をするかというと
その方が効率が良いからでしょう。

合ってるか間違ってるか
評価はそれだけで
評価したらお終いにできます。

産業の発展に伴って
均質な技術者が大量比必要な時代は
これが良かったのでしょうね。

現代も同じやり方で継続されているのは
その方が効率が良くて楽ちんだからでしょう。
教える側も教わる側も。
コミュニケーションも最低限で済みますし。

というわけで
長くなりましたが
こういうやり方の場合は
自分がどうする
という自由度はありません。

そんなことを考える能力は必要ないのです。

さてさて
ではものをつくる時にはどうなるか
それを次回お話ししましょう。

実はこれが全く逆というか
全く異なるロジックなのです。

簡単な明るい未来のつくり方

世の中色々ありますが
最近では、あまり明るいニュースが無かったりして
どちらかというと悲観的な傾向なのでしょうか。

悲観的な未来を想像して
それに備えた行動をする

明るい未来を想像して
それを実現すべく行動する

どちらも必要なのかもしれませんが

でも恐らく
日々生活する上での基本姿勢というか
支配的な感情としては
いずれかに傾くのではないでしょうか。

日々耳にする、目にする何かは
自分の外のことですが
それをそのまま受け入れて
流されていくのも

自分の外のことに対して
それはそれとして
自分はこうする
と生きていくのも

どちらを選ぶのも自由です。

ですが
自分の理想を形にするために頑張るのは
実は自分だけの問題ではなく
周囲に及ぼす影響もあるのです。

なので、可能であれば多くの人が
日々ポジティブに頑張ってくれれば
きっと世の中良くなっていくのでは
なんて思っています。

消極的で受け身になった場合
それも周囲に影響を及ぼしているわけですが
そういう姿勢でいる時って
そうなっていることに
自身が気付いていなかったりするのですね。

さて、仮に
受け身でネガティブな雰囲気を持つ環境に
身を置いたとしましょう。

まぁ、環境とはいうものの
それは人によって醸し出されるわけなので
単に受け身でネガティブな人に
接したり見たり聞いたり
という話になるのですが

環境から受ける影響というのは確かにあるわけで
そういう意味ではあまり好ましい情況ではなかったりします。

とはいえ
いつでも自ら望む環境に実を置けるわけではありませんし
人には波があるので環境自体も変動します。

そんなときは「反面教師」を発動しましょう。

感じたネガティブな様子や言動に対して
単に受け止めたり批判して終わるのではなく
「なるほど。ああいうのはネガティブに感じるぞ。
じゃぁ、自分はこうしてみよう」
と試すチャンスに変換して
即実践してみましょう。

これはどこでもできますよ。
学校でも職場でも訪れたお店でも。

これで自身が日々成長するきっかけができるわけですが
同時に環境も良くしていくことができますね。
加えて、多くの気付きを得られるようになるかと思います。

「何をレベルの低いことを…」
と思いますか?

そう思うならやってみたらいいですよ。
思いのほか努力や勇気が必要だったりするのです。

「そんなことは当たり前だ」
と日々実践している?
あなたは素晴らしい!

文明が発達したところで基本は同じ

ウクライナとロシアの紛争
というより戦争ですが
多くの情報が得られるので
当然色々考えるわけで

文明が発達したところで
争いは無くならないのだなぁ
なんて日々実感しているのです。

今日はそんなお話しです。

争いが無いのが理想なのであれば
大変参考になりそうな文明があるのを知っていますか?
皆さん知っているはずです。

その名は
縄文時代

遺跡を発掘すると人骨があったりするのですが
ほとんど争った形跡が無いのだそうです。
骨に鏃(やじり)が刺さった痕があるとか無いとか
そういうのを見ると分かるのですね。

そして、それが約1万年以上続いたのです。
驚きの長さです。

狩猟や採集が食生活を支えていて
集落で集団生活をしていたけど
この頃は大規模な農耕はありませんでした。

小さな集団が孤立して生きていたかというと
どうやらそんなことはなくて
多くの遺跡からは遠方の産物が発掘されていて
全国的に広範囲な交易があったことが確認されています。

争いは無いし
意外と色んなものを食べていて
食生活は豊かだったのではないかと見られていますし
土器や土偶を見ても
かなり頑張っているというか
クリエイティブというか
結構レベルが高いのです。

でも良いことばかりではありません。

当然ながら
小さな集団の単位で生活しているので
あまり余裕はなかったでしょう。

その証拠に
後の時代に比べると人口は少ないのです。

この時代の余裕は何かというと
主に食料ですね。

食料の余裕は人口に直結します。
食べないと生きられないので当然です。
特に出生率とか乳幼児の生存に効いてきます。

その後の弥生時代になると
大規模な水田が発掘されることから分かるように
米を作るようになって余裕が生まれます。
人口は爆発的に増加します。
食糧不足による命の心配もせずに済みます。

なんで米で余裕ができるかというと
備蓄が効くからです。
それがある間は飢える心配をする必要がなくて
食料以外のことに労力を割くこともできます。

水田には
広い土地と大量の水が必要なので
争いも起きるでしょう。
何せ食料が増えて人口が増えて
それを維持するために
もっとリソースが必要になって
争うだけの余裕もあるわけですから。

この争いは
「彼ら」と「我ら」の戦いです。
自分の部族ために
他の部族を屈服させて利を得るわけです。

戦わなければ自分達の存続が危ういということもあったでしょうが
「(自分達が)もっと欲しい」から戦ったこともあったでしょう。

人口が増えれば
より大きなものが必要になったり
大きなものを守る必要が生じて
戦いの規模も大きくなるでしょう。

そんなことを考えていると
いくら文明が発達したところで
いや、発達するからこそ
争いが起きるのだよな

とか

人の欲は恐ろしいな
なんて思ったりするのです。

余裕が無くても余裕があっても
問題は無くならないのですね。

時代が変わると
価値の重心点が動いて
得るものと失うものが変わるだけで
結局は何かしらのトレードオフをしているに過ぎない
そんな感じでしょうか。

こんなことを繰り返すだけでなく
いずれは変革の時が来るのでしょうか。
来るかもしれませんね。