比較からの解放

優劣や順位
自分の存在意義を感じたりするためには必要な感覚かもしれません。

学生は、小さい頃から順位の比較によるプレッシャーにさらされています。
それはシステムとして形づくられていて、もはやそれ以外の選択肢は見当たらない感じ。
もはやそれが常識。

で、時として思うのです。
この順位付けのプレッシャーが幸福感を感じられない原因ではないかと。

レースだのコンペティションだの言ってる人間がこんなことを思うのはどうなの?
とも思うのですが、そもそもそういったものと、学校の成績におけるものは違うのです。

レースとかコンペティションは、自分の外の領域に価値が置かれています。
他と競うことを楽しんでいたり、エンターテインメント的な要素があったり、そのために自らのパフォーマンスを高めるわけです。
もちろん学生のコンペティションであれば、それによって得たものは、彼らが社会に出た後に公共に向けて役立てることになります。

対して、授業とか受験とか、そういったフィールドの順位付けは、あらかじめ決められた項目にする限定的な能力にたいするもので、その成果の価値の置き所が内的なもの。
いずれ世に出た後に役立てられるときが来るのかもしれませんが、学生でいるうちはそういったことを実感できません。
良い成績や順位を獲得したところで、その時点では何かの役に立っている実感が得にくい。喜んでくれるのも、せいぜい身内か限られた知人くらいのものでしょう。
なので、モチベーションを上げにくい。

本当は、そういった限定的な領域での能力だけでなく、自ら自由に選んだり、創り出したりする機会があっても良いと思うのです。
だって、社会に出たらそれこそが求められる能力の一つになるのだから。

あと、競うときの形態も重要です。
一人で机に向かうばかりで無く、仲間と力を合わせてお互い伸すくれた能力を出し合ったり助け合ったり。
社会に出たら、一人にやらなければいけないなんてルールはそうそう無いわけで、むしろいかにチームでうまいことやるか、というのが大事だったりするわけですよ。

なので、チームでプロジェクトを成し遂げるような活動を、もっと重視すべきだと思うのです。

キミはどこへ向かっているのだ?

将来の希望はあった方が良い。
もしエンジニアになりたいなら、それを実践する機会を掴んでおいた方が絶対に良い。
これは経験上確信しています。

一つ明確に言えるのは
おぼろげながらでも何かしらの希望があるなら、それが叶う可能性は大小あるだろうけど、そのためのことをやった方が良い
ということ。

そのフィールドに身を置いて諦めずに継続すれば、きっと大きなものが得られます。

自分が何をやりたいか分からない?

そういった場合、周囲と同じように具体的な業種とか企業とかを決めないといけない、と思っていませんか?
でも、具体的なゴールでなく、何かしら得たい感覚みたいなものがあると思うのです。
そのために何かをやったら良いと思う。

人に言われたからとか、皆がやっているから、なんて動機でやることなんて、大して役に立たない気がするのだけど、どうなのだろう?
これまた経験上思うことだけど。

だってね、景品開発だってサービスだって、大抵の仕事はそうだと思うのだけど、皆がやってることなんて「普通」であって、商品としての魅力は無いんじゃないの?
まぁ「普通」を理解しておくことは大事なのかもしれないけどね。

そもそも「普通」をキッチリやるのは大事かもしれないのだけど、普通を目指して普通のことをやるのと、その先を目指して普通を通過点とするのは大きく異なります。

生真面目な普通の人は、キッチリ段階を踏むのだろうけど、そんなのまどろっこしくてやってられない、って人もいるわけで、そんな場合は一足飛びでその先の理想にチャレンジして良いと思うのです。

で、「ありゃ?何か足りないぞ」と思ったら、後戻りしたって良い。
そういうのって一見無駄なようだけど、実はそうでもない。

というのも、「ありゃ?何か足りないぞ」と思っていると言うことは、その足りないものを欲しているということ。
そう、その足りないものを欲する動機があるということです。

対して、ゴールが不明確なまま段階を踏んでいるうちは動機が弱いので、その過程で掴んだものをうまく利用できなかったりします。
ペーパーテストなんかはうまいことやるのでしょうけどね。

動機が弱いまま、普通のことを着実にやっていくやり方はあっても良いのかもしれないし、そういう人も必要なのかもしれない。

でも、そうじゃない道があっても良いと思うのですよ。

え?そんなやり方でうまくいく保証はあるのかって?
いやいや、着実な方法でうまくいく保証も無いのですよ。

キミの感性は何て言ってる?

自身のコントロール権を手に入れるために

人は何かを意識して行動する。

のですが、なかなか思った通りにはなりません。
頭では分かっているけど、なかなか思い通りにいかないってことは結構多い。
その辺のメカニズムがちょっと分かった気がしたのでご報告。

実は、意識より前に脳は反応しているそうです。
視覚やら何やら、外部からの入力に対して、意識の部分が認識して、行動を決定するより前に、です。

なんだそりゃ?
と思うかもしれませんが、実験するとそうなっているのですって。

なので、我々は意識によって行動を決定していると思っていますが、実はそれ以前に行動は決定されている。
何とも不思議です。

実はその部分が無意識によるものなのでしょうね。
習慣とか癖です。

なので、特に意識によって認識後の行動を決めない限りは無意識による自動操縦状態になるということです。

我々の行動は、全て自分で意識したとおりかというと決してそんなことはなく、実はほとんどの行動が無意識によるものです。

日常の行動のうち、どこでも良いので一部を切り取って、そこで何をしたかを考えてみましょう。
例えば「階段を上る」にしてみましょうか。

階段に歩いて接近するのですが、その時にどちらの足をどのように踏み出していくのかなんて意識しませんし、どちらの足からのどのように上っていくか、その時の腕の使い方や上体の角度とか、必要とされる数多くの動作の詳細まで意識しません。
でも何とかなっているでしょう?無意識でね。

これを朝起きてから家を出るまで、でも何でも良いのですが、他の行動に当てはめても同じように、ほとんどは無意識によるものです。

もちろんそこに意識を加えてやれば、変化させることはできるでしょう。
でも、意識しなければ自動操縦です。

では、その自動操縦になっている部分はどうにもならないのか?

そんなことはなくて、意識的に繰り返すことによって習慣として定着します。

しかしここで問題があります。

この無意識を改造したいと思ったとします。
で、どうしますか?

そのうちやろう
とか
あとでやろう
と思ったら負けです。
どうせやらないのですよ。
するともちろん結果は変わらない。

「そのうち」とか「あとで」でやれるなら、すでにやっているでしょう?
それができないから「現状」という結果があるわけです。

ではどうしましょう?

簡単です。
今すぐやる!
何度もやる!
です。
それが深層心理に定着するまで。

意識せずともできるようになるのがトレーニングです。
そう、トレーニングは意識よりも先に望む行動が発動するようになるためにやるのです。

最初は面倒だったり勇気が必要かもしれません。
でも、3週間もすれば意識せずとも自然にやるようになっています。
すると負荷はゼロになります。
そうなったら次の習慣作りをしましょう。
繰り返したら凄いことになりますよ!

原因を変えれば結果は変わるのです。