心の時代がやってくる 2

3年前の記事の続編です。
あまり続編っぽくないかもしれないけど。

なぜ心の時代とか言っちゃってるのか
一体どういうことなのか
そんなことをつらつらと書いてみましょう。

我々は一人では生きていけないわけで、皆でうまいことやっていかなければならないわけで、自分のことばかり考えていても、なかなかうまくいかないんじゃないの?と思います。
それはもう、自身も周囲も最終的には困ったことになるでしょう。

現に、最近では世界的にキナ臭いことになっていますし、同一国内の分断の気配があったりします。

我が国もあまり良い状態とは感じられません。幸福度が低いとかね。
そもそも何で、皆がこんなに仕事したり勉強したりしてるのに幸福にならんの?と思いませんか?何か良い方向に向かっている気がしない。

これまで個人主義で利己的な方向に向かってきたものが限界を迎えているではないのかな、と思うのです。
この場合の個人ってのは、人としての個人だったり、ある特定の国という捉え方をしても良いと思います。

そう。自分のことばかり考えていたら、他と利害が対立するのは当然だし、孤立したらやっていけなくなるわけで、そのうち収拾が付かなくなるのは不思議なことではありません。

この辺でカントの哲学が思い出されます。
徳が足らんのはイカンことなのだなぁと。

そういったことは、技術とかには関係なさそうな気がしますか?とんでもない!
技術は人が人の生活のために創り出したり使ったりするわけですから、それほど無機質な無味乾燥なものではありません。

例えば、ちょっとした道具でも、ユーザーの使い勝手をどれだけ考えるかで、使い勝手を始めとした価値は大きく変わってきますし、技術が生活を一変させるようなことも可能です。自動車やIT技術なんかは分かりやすい例ですね。

つくられた物体は、つくった人の鏡です。
そこには何が映されているかというと…つくった者の「心」とか「思い」が含まれているのは間違いないわけですよ。

つづく

コロナ禍からのリカバリー…は、まだ続く

コロナ禍が一段落してしばらく経ちます。
いまだに感染するケースは続いてはいますが、以前ほど深刻な状態を脱しているのは明確です。

さて、世界規模の疫病に対して、我々は様々な工夫や変化で乗り切りました。
しかし、その前後での変化はどうでしょうか。
喉元過ぎればなんとやらで、以外と意識していなかったりしないでしょうか。

別に、この変化自体に対して良いとか悪いとか、そういう評価をしたいわけではなく、この変化を踏まえて今後の方向性を考える必要はあるだろう、と思っているのです。

とはいえ、そう単純に何かしらの答えを導き出せるとも思っておらず、ブログという性格上、思い付いたり思い出したりする度にボチボチ書いていければ良いかな、なんて思っています。

このブログで記事にするべき内容は、当然ながら学生のことです。
特に彼らの意識の変化なのですが、これは結構厄介です。

なぜかというと、取り上げたいのは「意識の変化」ですが、正確にはそれは「無意識」だからです。
意識せずにやっていること。
習慣というか癖というか、そういうことです。
なので、そんなことは本人に聞いても分かりません。意識していないのだから当然です。

そして、これは事前に明言しなければならないことなのですが、彼らの状態であったり、抱える問題は、環境に影響されて構築されているということです。
これは環境を作った皆の責任であり、偉そうなことを言っている私自身の責任でもあると言うことです。

さて、では思い付いたところからいってみましょうか。

余計なことをしたくない
これはつまり、楽をしたいというのとニアリーイコールなわけですが、コロナ禍以前から多かれ少なかれそういう傾向はありました。
さらに言うなら、いつの世も若者はそんなものでしょう。

ですが!
コロナ感染に対する対応が、これにブーストをかけました。

「余計なことはしたくない」
という従来の若者のデフォルト感覚から
「余計なことはしてはいけない」
となりました。禁止です。

では当時、余計なことをすると何が起きたでしょうか?
もう多少記憶が曖昧になりつつありますが…
まぁ、「怒られる」くらいですかね。程度にもよるでしょうけど。
責任者から怒られる、親から苦情が来るとか。
最悪は、メディアによる吊し上げでしょうか。
いや、本当の最悪は、感染による落命です。

結果として、身体的なリスクの回避を目的として、それに伴うルールやらマナーやらモラルやら、そういったものが一辺に降りかかってきて、心が萎縮してしまう状態になりました。

これによる変化は、我々日本人にとって、実にクリティカルな変化を及ぼしたと思っているのです。

それは
「言われたことしかやってはいけない」
のような状態になってしまったことです。
正確には、それが強化されたのですが。

そしてそれは、命に関わることが理由なので、それはそれは強力なわけです。

そもそも我々日本人は、ポジティブリストの行動原理を持つものが多い。
つまり、あらかじめ決められたことをやる。言われたことをやるということです。

その状態に「言われたことしかやってはいけない」が付加されたわけです。
それはもう、最低限が極まるでしょう。

これは何も学生達に対してだけ言っているのではありません。
恐らく多くの年長者も同様でしょう。
私自身も多少なりともその方向に変化していることを自覚しています。

この状態から脱するのは、極めて難しいです。
だって、楽な状態から変化する訳ですからね。
そういうのって本能的に難しい。

しかし、言われたことをやる、言われたことしかやらない、となると、クリエイティブな仕事は難しい…というか、無理です。

クリエイティブな仕事は、価値を創造するわけですが、「言われたこと」は最低限なわけで、それでは全く創造的ではありません。

さて、そういった状況下で、我々夢工房のチームはどうしていたでしょう。

もちろんルールを守りました。
全てオンラインに移行していました。
まぁ皆さん同様でしょう。

で、コロナ明けにレーシングカーの大会、Formula SAEのオーストラリア大会に行ったわけです。
我々は技術レベルが低下して、まさにリセットが掛かった状態です。
正確には、知識とかスキルとか、そういったもののレベル低下よりも、マインドのレベルにリセットがかかってしまったのが致命的でした。

対して、現地のチームは思ったよりレベル低下していなかったのです。
一体何が起きていたのでしょうか?
大変興味深かったので、話を聞いてみたところ…

オーストラリアでは、感染防止のためのロックダウンはかなり強力でした。
それこそ、州境は閉鎖されて移動できず、州によっては、よそのお宅にホームパーティーに行ったりすると、一人あたり日本円で5万円程度の罰金が取られるなんてことにもなったようです。

そういった状況で彼らは、ロックダウンが掛かるという情報を聞きつけるやいなや、大学の設備を自宅のガレージに持ち込んだそうです。
そして、密かに開発を続けた、と。

これはモラルに反するどころか、ルール違反のように見えますが、不要な外出を伴わなければ問題無かったのでしょうね。
でも、恐らくは密かにメンバーは各人の家を移動しながらやっていたとは思いますが。
でも、表向きはルールの範囲内ってことだったでしょう。

基本的には、彼らの行動原理であるネガティブリスト、つまり禁止事項を守るのであれば、ゴール達成のためには何でもやるというやり方です。
自由とかガッツとかが行動のベースになっています。その上に、知識やらスキルやらが乗っかっているというカタチですね。

そんな話を聞いて、「あぁ、こりゃ敵わないわ」と思いました。
コロナにやられちゃった我々は、自由のもたらすパワーとかガッツはオマケと言うよりむしろ不要なもので、知識とかスキルがあれば何でもうまくいっちゃうのだ、言われた(最低限の)ことをやるのだ、インプットが全てだという価値観が強化されています。

と、こんなことを書いて、別に泣きを入れて言い訳をして、諦めたいわけではありません。彼らの真似をすれば良いって訳でも無い。
ここまで分かれば、あとは色々と想像して試すだけです。
再起動には手間と時間がかかりますが、ここから上向きに方向転換するのはとても重要で価値のあることですから。

これからどうするか だ

我々は成長したい。
これは現状に対する否定…かもしれない。
少なくとも、現状に満足していないから。

なので、成長するということは、現状からの変化に他ならない。

「今どうなのか」は大事かもしれない。
これは基準になるから。

でも、「今どうなのか」によって、未来が確定するわけではない。
未来は不確定で、「どうするか」によって「どうなるか」が決まる。
それは自分次第だから。

「どうするか」は自分で決められるはずなのだけど、意外なことにそれを放棄していたり、他に委ねてしまうことが多い。意外なほど多い。
これは無意識で行われているので、それこそ自動的にそうなっていることが多い。

それに、生きる上で必要になること全てに対して「どうするか」を自分で決めるというのも面倒で大変。
これを他が自動的にやってくれるのが、進んだ文明とか技術の進歩ということなのでしょうね。

ただ、全てを手放してしまうと生きる意味がなくなってしまう。
なので、何かにフォーカスして「どうするか」を考えたら良いでしょう。

さて、この「どうするか」ですが、それは「どうしたいか」によって決まるわけで、それはもう理屈ではなく、感情とか気持ちとか思いとか、そういったことになるわけです。

なので、この「どうしたいか」を磨くというか、発動するというか、それは思いのほか大事で、それによって未来が決まるというのに、そのための「場」が無かったりするのです。
これは大変です。

学校なんかだと、どうしたいかなんて関係なくて、正解とか不正解とかそういう話になるので、そもそも自分で考えて決める必要なんて無いわけですよ。そういうのが必要無い環境です。
「どうしたいか」なんてのは、考えて「分かる」ものでは無いでしょうし。

でも、知識や技術は思いを遂げるためにあるわけで、そもそも思いが無ければ、そんなものは必要無いのです。

どうしたら良いか分からなくなっちゃうことってたまにあるでしょうけど、そこで迷走しちゃうのは、「どうしたいか」が無くなっちゃっていたり、それが変な方向に向いちゃっていたり、そういうことなんじゃないかな?なんて思うのです。