仕事って何だ

学校を出ると、ほとんどの人は仕事をします。
学校は、社会に出るための準備をするところなのですが、そもそも仕事って何だ?というのは分からないまま…じゃないですか?
そんな状態のまま、仕事に必要であろうことを学ぶって変じゃないですか?

黙って学べば見えてくる?
いやいや、そんなことはないでしょう。

何のために学ぶのかが明確になれば、どのように学ぶかは変わってくるはずです。
というわけで、仕事って何なのさ?というお話しを展開してみましょう。

以下の内容は専門外のことなのですが、ちょっと調べたり考えたりすれば、誰でも見当が付く内容だと思います。それをあえて文字にして、昔々のお話しから、「仕事って何だ」というところを明確にしてみましょう。

人類が誕生したとき…そもそもどういう状態が「人類」と呼べるのか、そんなことすら専門外の人間には良く分からなかったりするのですが、とにかく最初は大した組織でもないし、大した技術もなかったことであろうことは簡単に分かります。

構成単位は数家族で、衣食住が全く無い状態から想像してみましょうか。

何はともあれ、食べないと生きられませんので、食料を調達しましょう。
まず、この時手に入れるべきは、簡単に調達できて、そのまま食べられるものですね。生きものを捕まえる道具なんてありませんから。
皆で探しに行きましょうか。人数分うまいこと確保できると良いですね。

木の実や果物は飽きたから、動物性のタンパク質が欲しいですか?
だったら狩猟用の道具でも作りましょうか?
弓矢でも落とし穴でもいいですし、釣りの道具でもいいですよ。

でも、経験がない者が、そういったものを発案して、それらを作るための道具も作って、完成したら、ちゃんと役に立つように性能向上しなければなりません。
そして、そんなことに時間をかけているうちに、お腹が減って動けなくなりますよ。

そうこうしていると天候が悪化して、暑くなったり寒くなったりもします。
家も衣類も欲しいですね。
でも、それらも作るための道具や材料が必要だし、ちゃんとしたものにするためには、試行錯誤してスキルを向上する必要がありますので時間が必要です。
そうなると食料を調達しに行く暇がありません。ますますお腹が減りますね。

というわけで、衣食住は、どれも低レベルで妥協しないと、そもそも生きることができなさそうですよ。
その状態では、組織も大きくできません。栄養状態が不十分だと人数は増えませんから。

でも、何とか衣食住のレベルを上げたい。
どうしましょうか?

そこで専門家の登場です。

とは言っても、いきなり専門家が現れたわけではなく、
「これ、やっとくよ。
そのかわり俺の分の食料調達してきて」
という者が現れます。

頑張って同じことばかりやれば、技術レベルが向上して、より高性能なものを作れるようになります。

食料調達係は、自分の仕事に専念できるし、専門家が作ってくれたものを利用できるので、ますます効率が向上します。

そんなふうに、専門家が登場して、相互に価値を提供することによって、環境が整って組織のパフォーマンスが向上して発展していくということです。

そして組織の規模は、家族から地域、国へと大きくなって、パフォーマンスもますます向上して、環境が良くなったり、生活レベルが向上したりする、ということでしょう。
その基本的な構造は今でも変わりません。

ただ、生活レベルが低く、組織の構成員が少ないうちは余裕がないので、部族内の専門家が欠けてしまったり、利己的な考えや行動は全体にとって死活問題になったりするわけで、相互に提供する価値の持つ意味とか意義とかは大きい。

でも、生活レベルが向上して余裕がある状態になると、生きるか死ぬかという心配はしなくても良いわけで、利己的な考えをしても全体には大きな影響は及ばない…ような気がしてきます。本当はジワジワ効いてくるはずですが。

というところで、仕事って何だ?という本質的なお話しでした。

考える方向を手に入れるということ

何をやるにしてもゴールやビジョンありき
これ、とても重要なことです。

例えば、クルマを作りたいと思わなければ、クルマは作れません。

クルマを構成するのは、多種多様な部品で、それらの生産には、材料や、要素技術の知識やノウハウが必要なわけですが、それらを構成する知識を組み立てたらクルマができるわけではない。
小さいものを寄せ集めたら、製品が形になるわけではないということです。

向上の組み立て工程などを想像すると、あたかもそうやって小さいものから形になっていくように思ってしまいがちですが、企画とか開発とかの段階では、全く逆です。

何度も同じようなことを言ってますが、知識や技術は重要です。それらは絶対に欠かせません。

知識や技術は
「こんなことができたらなぁ」
から生まれてくること

つまり
「こんなクルマを作りたいなぁ」
という思いがあって
その上で
「こんなことができたらなぁ」
というニーズから個別の技術が生まれてくるのであって
個別の知識や技術や材料を使うためにクルマを形にするわけではありません。

さらに言うなら
そのクルマですら
こんな生活がしたいなぁ
などというビジョンから生まれてくるもの
と言っても良いかもしれません。

最終的にどうしたいかというビジョン無しで
要素から構成していって
「こうなっちゃった」
というものづくりはあり得ません。

ビジョンとは、我々が何を目指しているのか、どのような結果を望んでいるのかを明確にするものです。

そしてそれは、ゴールを設定して、到達のために必要なステップを逆算して具体的にイメージするための源泉になります。

ビジョンがあることで、チーム全員が共有する目標や方向性が明確になり、それに向かってどのように進んでいくべきかを理解できるわけで、ビジョンが無ければ、どんなに優れた技術や知識があっても、それらを活用することは難しいでしょう。

ビジョンがあればこそ、チーム全体が一丸となって、その実現に向けて努力できるわけで、単品の知識や技術や要素から積み上げる考え方だとチームワークは必要とされません。
もっともそれでは最終的にビジョンを実現するという方向性ですらないのですけどね。

というわけで、基礎的な学習からの知識の習得は大事ではあるのですが、その方向性で何かを形にしようというのは、色々な意味で無理があると思っています。

やはり実際にものを作って経験しないと、そういった考え方は手に入りません。
理屈だけじゃ腹落ちしないでしょうし、これまでの習慣が邪魔をするはずです。

暗黙知と形式知

何度かネタにしてきた内容ではありますが、AIがかなり実用的になってきたので、改めて思ったことを書いておきましょう。

「あうんの呼吸」なんて言葉がありますね。「暗黙の了解」なんてのもあります。
これらは「言わなくても分かる」ってことです。
加えて、「職人の勘」なんてのもあって、「考えなくても分かる」ってことです。

日本人は、多くが似たような価値観や考え方をしていたり、各人の距離感が近いこともあって、そういうものが醸成されやすいのでしょうね。

これに対して、明文化されていないものに対する嫌悪というか、そういったものを明確化しないと…のような論調があった気がします。
というか、今でもそうかもしれませんが。

確かにそうした方が良いことはあります。
伝えやすいし、情報として残しやすいから。

そうやって伝えられるものを形式知と言います。

でも、なんでもかんでも全て明文化すれば良いかというと、決してそんなことはないぞ、と思うのです。
そもそも、なんでもかんでも明文化は無理です。
文章とか、何かしらのメディアで伝えられることには限界があります。

やるべきことをキッチリ明確化してマニュアルにして、それに従えば、多くはマニュアル以外のことはやらなくなるでしょう。

言われたことをキッチリやれば100点を取れる学校教育なども分かりやすい例で、言われたことや、明確化されたやるべきこと以外はやらない傾向になります。

「言わなくても分かる」「考えなくても分かる」ってのは、その領域に到達するまでに経験が必要で、そういうのは面倒なものなのです。
経験に基づくもので、直感が必要なことなんてのは、大抵はそういうものです。

そういった「やらないとわからないこと」を暗黙知と言います。

でも、往々にして面倒なことって価値があったりするもので、そういうのを「無駄」ということにして排除していくと、味気ないものになっていったりしないでしょうか。
メディアに残して大量配布できる情報であれば、価値は低下するでしょう。

形式知で何とかなるものはAIが得意な領域ですよね。
なので、そういったものはAIを駆使してバリバリやれば良いでしょう。

対して暗黙知が効いてくる領域、これをどうしていくか。
これは今後、大きな課題になってくると思います。
というか、すでにそうなっていますかね。

夢工房でやっていることって暗黙知ベースのことばかり。
形式知ベースの世界にどっぷり浸かってきた学生には、なかなか手強い世界かもしれませんが、そこに価値があるのは明確なのですよ。