人は見たいものしか見えない 3

悲観的な人にとって、この世は悲観的に見えます。
身の回りで起きること、見るもの聞くこと、その中の残念なことにフォーカスしてしまうから、そんな世の中に見えます。

そんなの当たり前なことなのですが、そう見えている当人にしてみれば、そんなふうに見えていることこそ、その人にとっての真実ですから、「そんなことないよ」と言っても全く説得力はありません。

さらに、悲観的に考えている人がポジティブなことをするってのもそうそう無いわけで、その結果は残念なことになりがちです。

その逆もしかり…なのですよ。

楽観的に、「世の中捨てたもんじゃないよね」なんて思っていたりすると、色々チャンスが見えてきたりもします。
というか、ものごとをポジティブに捉えていないと、良いことは起きません。

そんなの当然だと思うのですが、残念なことにネガティブな人はそういったことを信じてくれませんけどね。

でもまぁ分からなくもないのですよ。

身の回りの事なんて、細かく見ていけば多くは思い通りにいっていないことなんて山ほどあります。
そこにフォーカスしちゃったら「ほら、ほとんどダメじゃん」って思うでしょう。

でも、「思い通りにならないことがあるなんて当たり前で、それでも自分が挑戦できそうなことって結構あるんじゃないか」なんて思っているなら、見える景色は違ってくるはずです。

ネガティブなものの見方をしている人を変えることはできないでしょう。
意識的で無いにせよ、その人はそういう見方をしたいわけですから。
なので、ここでは問題提起をしているわけではありません。

ものごとの明るい側を見たい
と思い続けるのって難しいかもしれないけど、そうしていきたいな。と思うのです。
きっとそれだけで色々良くなるはずだから。

もちろん問題提起と解決ってのも大事ですけどね。
ただ、必要以上に悲観的になったら、ものごとは解決しないのではなかろうか、と思います。
ネガティブな思考が世の中を良くしていくとは思えませんから。

相応のやり方

もっと色々知っていればとか、もっと色々できればとか思う事があったり、理想や望みがあったりするけど、なかなか簡単にはいきません。

若くて経験が少なければなおさらで、色々知らなかったり、できなかったり、間違えたりするのだけど、それも含めて必要な経験なのだろうな、なんてことを思うのです。

立場上、学生達には、自分が若いときにもっとこうしておけば良かったと思うことを伝えたりもするのですが、そこに価値を感じて実践してくれるとも限らないし、そもそも言われた事ができたらそれで良いのかって気もします。

というのも、若いなら若いなりに経験しておくべき事があるわけで、若いうちから他人の価値観に乗っかって、他人からもらった「人生のコツ」みたいなことを実践しながら失敗無く生きることが良い事とも思えないのです。そんなのは自分の人生じゃ無いでしょう。
失敗する事も含めて多くの事を経験して欲しい。

人には年齢相応に為すべきことがあるというか、生物として成長過程において相応のやるべきことがあるというか、なんかそういう気がするのです。

とはいえ、先人の経験を全く活かさずに、自身が遭遇する経験に対処するだけでいるってのもどうももったいない気もします。
だってそれじゃぁ、人類進歩しませんもの。

結局、人の生き方にこれといった答えなんか無いので、とにかく色々やってみて、オリジナルの自分の生き方を構成していくってのが良いのでしょうね。
きっとそれが最も満足感が高いやり方なのではないかな。

チャレンジャーにお勧めなのは「最初に高望みしろ」ってことです。
それによって分かる事、得られる事が沢山ありますから。

じゃぁ自分が年齢相応に満足がいく成長ができているかというと、決してそんな事は無いと思っていて、ずーっと不十分で不満足な感覚を引きずっている気がします。
きっと死ぬまでそんな感じなのかもしれません。

満たされることなくグルグルループするのが人生

我々は一体何のために頑張っているのでしょう?
勉強とか仕事とか。

生活水準や環境の向上ですかね。
何度も言っているように、個人的な欲望の追求のためにやっちゃうと、そんなのは他人から見れば価値が無いわけで、結果として行き詰まっちゃうと思います。
なので、やはり他に価値を提供しなければならないわけで、それが仕事の本質でしょう。

まぁ、その辺の細かいことは抜きにして、そんなふうに頑張って、色々良くなったとしましょう。生活環境が向上して、心配事が無くなったとしましょうか。

心配事が無いってことは、解決すべき問題も無いってことで、そういうものが無ければ、何も気に病むことはなくて、満たされて、頑張る必要が無い状態になる?

なるかなぁ。
まぁ、なったとしましょうか。

でも、満たされた状態が日常になると、それは「普通」になっちゃうわけで、「普通な状態」は満たされた状態とは言えなくなる気がしませんか?

だからその先が欲しくなるのかな?

そうなると、人の欲望は際限が無い、なんてのは分かる気がしますね。

仮に「普通な状態」が結構満たされているように感じられて、その現状を維持したいなんて思ったりしたら、ちょっと危険な気がします。

欲望云々は抜きにしても、何もしない状態になっちゃったら、自分は他の役に立っていないわけで、まさに役立たずというか、価値が無くなっちゃいますね。

そんな事を考えていると、お釈迦様は凄いなぁ、なんて思うんですよ。
だってお釈迦様、そもそも王子様ですからね。

何が言いたいのか自分でも良く分からなくなってきましたが、頑張らなくて役に立たない状態ってのはマズイよなぁ、と思うのです。
そんなんなっちゃったら、生きている気がしなくなるというか、為すべきことが無くなったら、人として生きている意味はあるのか?と思うし、そもそも、それで生きていけるのか?

満たされるためにや頑張るのに、満たされたらお終いだから、グルグル頑張り続ける必要があるってことか。

それに対して、「どこまで続くんだよ…」なんて後ろ向きな気持ちでいたら、面白くなくなって我慢比べみたいになっちゃうので、行けるとこまで行ってやろう!みたいな前向きな気持ちが大事なんでしょうね。

それをグルグルループさせて生きていくのだけど、永遠では無い。

と、全く落ちが無い記事でしたが、そのうち落ち着いてこういったことを考える時間を取らないとなぁ、と思っています。