自由って面倒くさいもの

我々年長者は、未来のために若年者の成長に手を貸す必要があります。
色んなアプローチや、色んな関係があるでしょうけど、それは確かでしょう。
だって、そうしないと未来はお先真っ暗になりますから。

教育期間は教育する相手のためにあります。当然です。
この「教育」って一体何でしょう?
「教え」「育む」ですか。そうですね。

それは一体どういうことですか?
「言って」「やらせる」ことですか?
そういうのも当然あるでしょう。

そんなことばかりだと、単に「他人をコントロールしたい」ってことなってるのではないかな?と思うことがあります。良くあります。
学校の先生に限らず、「親心」なんてのはそういうのが多分に含まれているのではないかな、とも思います。

まぁ、若年者をコントロールするというのも、多少は必要かと思いますが、そればかりじゃ未来は困ったことになります。

どういうことかというと、私みたいに大したことがない教員に教育されると、学生は、もっと大したことがない人間になってしまいます。
だって、知ってることを伝えてやらせるのだからそうなるでしょう。
その伝達がうまく行かなければ、成果はどんどん劣化していきます。

そんなの当たり前じゃないかと思うなかれ。
学生達の本来のパフォーマンスは、そんなもんじゃありません。

学校は、単に教え伝える場とは限りません。
彼らにチャンスを与える場であるべきです。
それはもう色んな意味、色んな形の。

気付は20年以上も、ものを作る学生達に付き合ってきたわけですが、彼らが自由の意味を理解して頑張ると、想像以上の力を発揮するのを見てきました。

ただ、近年では、「言われたことをやる」という前提が強固な壁となっている気がしているのです。
それが彼らの本来のパフォーマンスを発揮するのを妨げているように感じます。

言ったことをやらせて学生達をコントロールするという前提であれば、この状況は大変楽チンで良いことです。面倒がありませんから。
でもそれでは、学生が思いもしなかったパフォーマンスを発揮することはありません。

彼らに自由を与えてチャレンジさせたら凄いことになるのは分かっています。
でも、それをやると面倒なんですよね、きっと。双方にとって。

面倒なのをぶち破るなんてのは、単純なことなんだけど、思いのほか難しいんですよ。
だって、我々は面倒が無くなる未来を夢見てきたはずだし。