「やる」か「やらされる」か

昨日の記事で「幼少期からの経験がものを言う…」とか書きましたが、じゃぁ一体どうしたら良いのだ?となります。

正直、正解なんて分からないし、そもそもそんなものは無いのでしょうけど…とはいえ考えちゃいます。

幼少期の経験は、環境から得られるものがほとんどでしょう。というか、それが全てか。

その環境ってのは、親とか学校とか、社会が作って用意したものが多いでしょうね。
それらは子供達への期待によって作られる。
場合によっては、利己的な理由とかもあるけれど。

で、ここが難しいところなのですが、期待する側には当然望むことがあるわけです。
「こうなって欲しい」と。

それがあまりに具体的かつ強力な場合、子供達に「やらせる」わけですよね。
その場合のアプローチは色々あるでしょう。
強制的にやらせたり、「心配だ」ということでやらせてみたり。場合によっては、トレンドのようなものを示すことで群集心理による行動を促してみたり。
すると子供達は「やる」わけですが、これは「言われたことをやっている」のです。

その結果は、できたりできなかったり様々でしょうけど、いずれにせよ、創造性や自発性は必要無かったり、夢中になってのめり込んで、失敗しながら限界を突破しつつ伸ばす、なんて経験はできません。
多くはウンザリします。
ウンザリすればするほど自発性は消滅していきます。
そして、「やる」と「やらされる」の違いが分からなくなる。

言われたことをやってみて、そこそこできたことを「できる」と勘違いしたりもするでしょう。まぁ、これは言われたことをやっただけに過ぎませんが、マシな方かもしれません。多少なりとも自信が付きますから。

とまぁ、色々言ってみたところで、結局は正解なんて無いわけで、色々試すしか無いのですよね。
本人が自身で色々試すのが最高ですが、場合によっては、学校とか指導者が学生達を試すというようなことになるでしょう。
まるで人体実験のようですが、現状が満足いかない状態なら、変化するしか無いわけで、そのためには試してみるしかありません。

その試した内容や結果など、短期的なものの細部に対しては良いだの悪いだのは言えるかもしれません。
ことによっては、そんなことしない方が良かった…のようなこともあるかもしれません。

ですが、そういう細部を抜きにして、一所懸命考えたりやったり、諦めずに続けたり、そういったことは、理屈抜きで素晴らしいことです。

知識なんてのは、将来役に立つ保証はありませんが、頑張った経験は必ず役に立ちますから。これはどう考えても間違いない。

なので、諦めたくない好きなことを一所懸命やるべきなのです。そう思います。

好きなことに夢中になったり、言われてもいない余計なことをやって、しょっちゅう怒られていたような幼少期の経験を持つ人は、結構凄い仕事をしている気がするのですが、どうでしょうか?

大学生になってからでは遅い?

そうかもしれません。
でも、何とかなるのかもしれません。