価値の正体

学生が学校で何をやっているかというと、端的に言ってしまうと価値を高めるための準備です。ですよね。

かち【価値】
どれくらい大切か、またどれくらい役に立つかという程度。またその大切さ。ねうち

だそうです。

個人だって、組織だって、国家だって、価値が高い方が良いに決まってます。
これはマネーに限ったことではありません。
マネーは価値を数値化して見えるようにしただけに過ぎませんから。
目安にはなりますが、価値とイコールではありません。

なので、金銭の大きさではなく、その根源たる「価値」に注目すべきです。
金額を追うのではなく、価値の正体を見極めるのがまずは重要かと。

大抵の場合、価値は何かを発信することによって発生します。
物体だったり行為だったりします。
発信の対象は、多かったり少なかったりします。

色々な方法や形や量や大きさがあったりするわけですが、いずれにせよ、価値の大きさは…

どれだけ相手のためになっているのか
どれだけ相手が必要としてくれているのか

ということで決まるでしょう。
ですよね?

なので、自分が!自分が!!ということではなく、どれだけ相手のためになるのかということ。ここが最も重要なはずなのに、なぜか自分のことばかり考えちゃう。

で、その中身は?というと…

自分ができないことや、やりたくないことで…

面倒なこと
大変なこと
分からないこと
勇気が要ること
気付かないこと
…だったりします。

というように、価値の本質というか構造というか、そういうのはそれほど複雑なものでは無いわけですが、いざそれを作るとなると、これがなかなか難しい。
そういう自分だって、分かっていても、なかなかできなかったりしますもの。

だから価値があるんですよ。

でも、毎日ちょっとずつでも、それらを積んでいくようなトレーニングはできるはずです。
まずは簡単なことでも良いのでやってみましょう。繰り返して習慣にしましょう。

なにも急に凄いことをやらなくても良いのです。
ちょっぴり面倒なことや、ちょっぴり勇気が要ることで良いのです。
継続すれば基準が変わっていきますから大丈夫。
やると分かることもあるし。

そういうちょっとした変化だって価値観の変化です。
価値観を変えられるって凄いことなんですよ。

教育の限界…かもよ

皆に同じことをやらせる教育、これはもう限界なのではないか…という気がしています。

一体何が限界なのかというと、それは「心」が限界なのです。
面白くもない、何のためか分からない「学習」と呼ばれる行為を皆が同じようにやって、延々と続けて、その成果を数値という定量的なもので評価される。
そんなことが限界なのだと思います。

今や日本は、周辺国に学力で追い越されているような話を聞きますが、そんなの当然じゃないかとも思います。

そもそも
皆が同じことができなければならないというのはどうなのか?
どこまで同じであるべきなのか?
それは誰が求めているのか?
それは何(誰)のためなのか?
良く分かりませんね。

そんなことは気にせずに、黙って言われたことを真面目にやって、できるようになれ!
とか言われても、動機が十分でなければ頑張れませんよね。
できれば楽してクリアしたいって思う気持ちは分かります。

学ぶのは重要なことですが、それは頭の中に知識を増やすことだけを言うのでは無いはずです。
もちろん知識は大事です。基本的に知っておくべきことがあるのは事実です。
が、それはゴール達成のためのツールでしょう。

ゴールを定める前に、まずは走りだそう!みたいなことになってるような気がします。それ、どうかしてるんじゃないですかね。
まぁ、見ようによっては、そういうのも面白いのかもしれませんが。

やはり、まずはゴールを定めるべきで、次にゴール達成の方法を考えて、最後にそのための手段を得る、というアプローチを取らないと、訳分からなくなると思うのですが、どうなのでしょう?
これ、ものをつくるときの常識的な手順ですが。

今の教育って
「まずは部分的なものを、何のためかは分からないだろうけど、あれもこれも沢山知りなさい。そうしたら何とかなるんじゃない?」
のようなやり方になっているような気がします。

何とかなることもあるかもしれないけど、それ、あまりにギャンブル度が高すぎると思うんですよ。

たぶん、一般的には逆の捉え方をしていると思います。
たくさん知っていれば潰しが利くだろう…みたいな。

でも、たくさん「知って」いたって「できる」わけじゃ無いし、さらに何のためかが定まっていなかったり、言われてやっているだけだったりしたら、その内容だって競争力があるレベルにはならないでしょう。皆が同じことをやっているのだから。
なので、多くの似たようなレベルのライバル達との過当競争になるのは必然。

もっと困るのは、それを人材として受け入れる側かもしれません。

それに、強い動機も無いのに、限りのあるパワーを多くのことに分散して、それらをまんべんなくできるようになりなさいって、凄く危険な戦略のような気がします。

でもまぁ、ここまで言って何ですが…
そうしたい人はそうすれば良いと思います。
目的無しに学ぶのが云々言いましたが、学ぶ事自体が目的だったりもする場合もあるでしょう。

でも、他の道が無いのはどうかと思うんですよ。
特に、ゴール達成のためにパッションを炸裂させるような。

そういうのって大きな価値を生み出せるはずだし、何より面白いと思うのです。

やらせない学校

教育ってどんな方法が良いのだろう?とか、どんな方法があるだろう?なんて考えるのですが、その際に比較対象として引っ張り出すのは、やはり現状です。

言って、やらせる

という教育です。

これ、まるまるひっくり返したらどうなのでしょう?

言わないし、やらせない
外部からの動機付けはしない、という意味です。

環境を与えて、ゴールを自分で決めさせて、手段も自分で考えて、とにかくやってみる。
そのために必要なものは、自分で取りに行く。

その結果、大抵はうまく行かなかったりするのですが、その結果に対して、なぜそうなるかを考えて、次の手を打つ。
そしてうまくいくまでやってみる。

「言わなかったらやらないでしょう!?」

良いのです。やらなくても。
チャンスがあるのにやらなければ、そこにいる意味は無いのだから、やりたくないなら辞めたらいいのです。
手を抜いて楽なことをやりたいとか、理屈ばかりで行動しないとかも同様でしょう。

自分には必要無いと思ったら、その授業は受ける必要は無いけど、必要だと思ったらトコトンやれば良い。

こういうのって、定量化した評価、つまり数字での評価がしにくいですが、そもそも数値化された評価なんて、社会に出たら大して役に立たないのですから、「何ができるのか」で良いと思うのです。

ペーパーテストなんて、徹夜で暗記したところで、どうせテストが終わったら忘れちゃうんですから。

たぶんこういうやり方って、義務教育以降で、将来の方向性を定めていて、そのための能力を得たいという前提条件は付くでしょうね。
あれ?そもそも大学ってそういう所じゃなかったっけ??

従来の教育方法が好きな人は、そういうのをやれば良いし、何かに特化した能力が欲しければ、それなりのやり方ができるチャンスがあっても良いと思うのです。