教育の限界…かもよ

皆に同じことをやらせる教育、これはもう限界なのではないか…という気がしています。

一体何が限界なのかというと、それは「心」が限界なのです。
面白くもない、何のためか分からない「学習」と呼ばれる行為を皆が同じようにやって、延々と続けて、その成果を数値という定量的なもので評価される。
そんなことが限界なのだと思います。

今や日本は、周辺国に学力で追い越されているような話を聞きますが、そんなの当然じゃないかとも思います。

そもそも
皆が同じことができなければならないというのはどうなのか?
どこまで同じであるべきなのか?
それは誰が求めているのか?
それは何(誰)のためなのか?
良く分かりませんね。

そんなことは気にせずに、黙って言われたことを真面目にやって、できるようになれ!
とか言われても、動機が十分でなければ頑張れませんよね。
できれば楽してクリアしたいって思う気持ちは分かります。

学ぶのは重要なことですが、それは頭の中に知識を増やすことだけを言うのでは無いはずです。
もちろん知識は大事です。基本的に知っておくべきことがあるのは事実です。
が、それはゴール達成のためのツールでしょう。

ゴールを定める前に、まずは走りだそう!みたいなことになってるような気がします。それ、どうかしてるんじゃないですかね。
まぁ、見ようによっては、そういうのも面白いのかもしれませんが。

やはり、まずはゴールを定めるべきで、次にゴール達成の方法を考えて、最後にそのための手段を得る、というアプローチを取らないと、訳分からなくなると思うのですが、どうなのでしょう?
これ、ものをつくるときの常識的な手順ですが。

今の教育って
「まずは部分的なものを、何のためかは分からないだろうけど、あれもこれも沢山知りなさい。そうしたら何とかなるんじゃない?」
のようなやり方になっているような気がします。

何とかなることもあるかもしれないけど、それ、あまりにギャンブル度が高すぎると思うんですよ。

たぶん、一般的には逆の捉え方をしていると思います。
たくさん知っていれば潰しが利くだろう…みたいな。

でも、たくさん「知って」いたって「できる」わけじゃ無いし、さらに何のためかが定まっていなかったり、言われてやっているだけだったりしたら、その内容だって競争力があるレベルにはならないでしょう。皆が同じことをやっているのだから。
なので、多くの似たようなレベルのライバル達との過当競争になるのは必然。

もっと困るのは、それを人材として受け入れる側かもしれません。

それに、強い動機も無いのに、限りのあるパワーを多くのことに分散して、それらをまんべんなくできるようになりなさいって、凄く危険な戦略のような気がします。

でもまぁ、ここまで言って何ですが…
そうしたい人はそうすれば良いと思います。
目的無しに学ぶのが云々言いましたが、学ぶ事自体が目的だったりもする場合もあるでしょう。

でも、他の道が無いのはどうかと思うんですよ。
特に、ゴール達成のためにパッションを炸裂させるような。

そういうのって大きな価値を生み出せるはずだし、何より面白いと思うのです。