セーフティネットの難しさ

学生には、どんどんチャレンジして欲しいのです。
それが自分のためになるのはもちろん、ひいては世のため人のためになるのですから。
なにより、いつも同じ、ずっと同じじゃ面白くないじゃん。

で、チャレンジできる環境が重要となるわけですが、人間って難しいです。

チャレンジできる環境というのは、安心して全力でチャレンジできる、平たく言うと安心して失敗できる環境とも言えると思います。
いわゆる「セーフティネット」ってヤツですね。

どうやら脳科学的には、この安心感が無いと、感情とか学習とか、体の機能なんかも十分働かないようなのです。
私はその手の専門家ではないので、ここであまり深掘りはしませんが。

で、この安心感が問題です。

好きなことを夢中でやっている中での「やる方」での安心感なら良いのですが、変化せずに済む方の安心感を選択してしまう場合も多いのです。やらなくて済む安心です。
これを自然と得ようとしてしまう。習慣ってことですね。

まぁ、分からなくも無いのです。
というか、劣等生だった私には良く分かります。
学校でやることなんて、最低限にしたいのですよ。

というわけで、こういうのは以前からあったことではありますが、コロナ禍でのチャレンジできない環境でブーストが掛かった気もします。

しかし!
好きなことをやっているチャレンジすべき状態においても、変化せずに済む安心を求めるやり方をしてしまったりすることがあるのです。それも自然と。

これ、本当にもったいなくて、残念で、気の毒なことなのですが、習慣が原因となるとなかなか厄介です。
だって、本人は意識していませんから。

でも、解決策は、ものづくりの中にあると思うのです。
できた「もの」は、自分自身の投影ですから。

好きなことをやって、何かを作れば分かるのです。
「あぁ、今の自分って、こうなってるのか」って。

ただし、真剣にやっていれば、という前提が付きますが。

ってなことが、ものづくりのコンペティションに取り組んでいる夢工房の学生達を見ていると、良く分かったりするのです。

一応言っておきますが…
地面のすぐ上に張ったロープの上を綱渡りするのにセーフティネットは要りません。
高所の綱渡りに必要なのです。

自己評価は能力ですよ

「やれ」って言えば「やる」
そして「できる」ようになる
できるようにするためには、「やれ」と言ってやらせることだ
と思ってたりしますが…どうなんですかね?

確かにそれも一理ある、という気もしますが。

次の成長段階では、望む理想に対して何が不足しているのかを自覚して、それを自力で取りに行くこと。これが自ら学ぶと言うことでしょう。

それには理想が必要です。「何のために?」です。
そして、理想と現状とのギャップを自分で認識して、それを自力で埋めたいと思うことが必要です。

やっていることに対する他による評価も大事で、大いに利用すべきですが、自己評価ができることは重要です。
この場合、何をやっているかというと、自分が取り組んでいる現状や成果を客観的に評価するということをやるわけなのだけど、これは「このままやったらどうなるのだろう?」とか、「他からはどう見えるのだろう?」とか、「相手はどう感じるのだろう?」というようなシミュレーションですよね。それによってその後の方向性を決めたり、価値を見積もったりということをしたりするわけです。

それができるよになると、「良いもの」「価値あるもの」を作るための能力を一つ手に入れたことになります。

で、そういう能力を持っているのは、やりたいことをやってきた人だったりします。
やりたいことをやって、満足とか喜びを得たいなら、自ずと自己評価が必要になりますから。

対して、言われたことばかりをやる場合、自己評価はほとんど必要ありません。
だって、言った人が評価するのだから。
だから、自分で「自分がやったことがどうだったか?」なんてことは良く分からなくなっちゃっても仕方ないんですよね。
これ、結構恐ろしいことじゃないでしょうか。

今回は「自己評価」なんて言ってみましたが、多くの場合、特に学校では「反省」と呼ばれますよね。
そうなったとたんに、暗い顔で俯いて「もうしません」みたいな感じになっちゃいます。
そんな状態で、ものごとは良くならんでしょう。

うまくいかなかったり、やらかしてしまったら「で、どうする?」が大事なわけで、下向いて思考停止しても、何も良いことはありません。

ぶつかるくらいじゃないと本物じゃない

本気で目的を達成しようと思う者が集まって、チームとして活動しているなら、意見の相違などがあってぶつかるのが当然です。
むしろそうならなければ本物ではないとすら思っています。

別に喧嘩しろってわけではないですが、チーム全員が一つのゴールに向かっていたとしても、それぞれが考えていることは微妙に違っていたりすることは当然です。

チームで何かをやるときは、それぞれが担当を持っていたりするわけで、そうなると各人の欲求を満たそうとすると衝突が起きるのは当然です。

それはなぜか?

クルマなどは分かりやすいのですが、あるパートの性能を最大化しようとすると、大抵は何かしら妥協をする必要が生じます。
そうやってコンセプトの達成に向けてバランスを取る必要があるわけです。

昔一緒に仕事をしたことがあるF1マシンの車体設計者も言っていました。

「F1だって妥協の産物なんだよ」

「部分」が最大限の性能を出したとしても「全体」が狙いに対して最適になっていなければ勝てないよ、ということです。

担当各人が、自分のやり方や価値観で行きたい、それで成果が出せるはずだと思うなら、相手に妥協を迫る必要があるわけで、その思いが強ければ衝突が起きるでしょう。
むしろ何かしらの衝突が起きないようでは、本気でやっているとは言えません。

衝突が起きないとしたら、絶対的な権力を持ったリーダーが、トップダウンでやらせているか、メンバーのモチベーションが低くて、各人が本気でやっていない可能性があります。

最近では、衝突を起こさないことが最優先事項になっていて、そのために取り組みの内容が自然と妥協したものとなる…なんておかしなことも起きていそうです。

いずれにせよ、そんな組織では成果は出ないと思います。

各人が最大限の理想を出して、その上で摺り合わせをして皆で共有できるゴールや、チームの理想を作っていく…と、そんなのが理想だと思います。

本気でゴール達成のための行動を取ることができるか?
衝突を避けるために表面的な「仲良し」に終始するのか?
その辺が大きな分かれ道ですが、一般的に学校では迷うことなく後者を取らせるでしょう。

だって、その方が面倒が無いもんね!
面倒が無い…つまり価値が無いということになりますが。