チャンスの逃し方と掴み方

チャンスって何でしょう?
日本語では、機会とか好機とか、そんなことですね。

で、それらは目に見えないことがほとんどです。
だから掴むのが難しい。

学校って、チャンスが溢れていたりするのですが、それが利用されないことが多いです。
どうしても「やらされる」経験が多くなるので、チャンスと単なる負荷の見分けが難しいのかもしれません。
チャンスを掴むってことは、同時に責任も生じるし、当然ながら負荷も発生しますから。

さて、そんな学校にいると、チャンスを逃してしまうケースを目にすることも多々あるわけで、そんなのを見ていると逆にチャンスの掴み方が分かったりもするのです。

さて、チャンスを逃すとき、どんなことが起きているかの一例です。

チャンスが放られたら…
それを掴むか否かを良~く考えて返答に迷う。
そうこうしているうちに、チャンスは行ってしまいます。
あら、残念。

「迷い」は、あまり良い結果に繋がらないのです。
その理由はこうです。

時間は有限です。
考えている間も確実に時は流れてゆき、実行する時間は減っていきます。
実行できなければ、チャンスの意味はありません。

チャンスは自分以外から放られます。
放る理由は、相手に期待しているからです。
「コイツなら、このチャンスを面白く転がしてくれるだろう」と。
そこで迷ったりされると…
「あぁ、期待外れだったか」
となります。
期待に答えなければ次はありません。

迷う気持ちは分からなくもないのですが、勘違いしてはいけないのは、放られたチャンスは私物化するべきものではないってことです。
期待されているのは、チャンスを利用して価値を作り出すことです。
価値は他に発信するものです。他人にとっての価値です。
それができれば、価値を創造した本人の価値が高まるということです。

で、チャンスを掴むか否かで迷っているとき、何を考えているかというと…
大変かなとか、難しいかなとか、失敗しないかなとか、損しないかなとか
大抵は自身の損得勘定を働かせていたりします。

チャンスに対するアクションは、チャレンジです。
チャレンジは、やってみなければ分からないことで、必ずリスクを含んでいます。
最初からうまく行くことが確定しているなら、それはチャレンジとは呼びません。

大変なこととか面倒なこととか、そういったことにリスクを取ってチャレンジしてくれる人って貴重な存在です。それが価値の本質でしょう。

さて、そもそもチャレンジに没入できれば、それは負荷でもなんでもないわけで、自分の好きなことをやるとか、腹が決まった状態とか、そういう迷いが無い状態なら成果も出しやすいはずです。

やってみないと分からないことは、考えても仕方ないのです。
たとえうまくいかなくても、経験が手に入るので損はしません。
なので、正しいチャンスへの対応は、「来たと思ったら迷わず掴む」これに尽きるでしょう。

今年も学園祭の展示用に、鈴鹿8時間耐久ロードレースの出場マシンをTeam NOBBYからお借りしました。
今年は夢工房の学生5名がクルーとして参加させて頂きましたが、そういうチャンスはリスクとか責任もセットになっているものです。
だからこそ価値ある経験ができるのです。

ショボいものから考える良いものができる根源

何かをやるときって

  • ゴールを設定する
  • 考える
  • やる

と、こんな順番になるかと思います。一般的には。
ですよね?

で、何かものをつくろう!なんてなったとき、もちろん「良いもの」を作りたいと思うわけですが、なかなかそうもいかなかったりすることがあります。

この「良いもの」は、物体に限りませんが、私が説明しやすいという勝手な都合で、ここではものづくりを例にとって話を進めさせてもらいます。

理想は高いのに、できたものがイマイチだったりするなんてことはありがちでしょう。
ここでは、何かカッコイイ部品を作ろうとした時を例に挙げてみましょうか。

まずはゴールの設定です。
ここでは理想を盛り込んだ、機能的なカッコイイ部品をイメージするわけです。
この時点で、その理想が無いとか、どうしたら良いか分からないなんてことになる場合は、視野が狭くて全体が見えていないとか、そもそも知識が足りなくて「引き出し」が無い状態であるとか、そんなところだと思うのですが、根底にあるのはパッションだったりします。モチベーションも無いのに良いものをつくろうなんて、土台から無理な話です。
ここでは、お勉強ができるとかできないとかは、あまり関係ありません。知識は重要ですが、ここで言う知識は、学力として表される知識というより、これから作ろうとするものが、最終的に発揮する価値に対する想像力というか妄想力というか、そういうことなので、知識さえあれば理想的なゴールを想像できるかというと、そんなことは無かったりします。

次に、どうやってそれを物体にするかを考えます。
機能や性能を考えて具体的な仕様を決めたり、製作方法を考えて図面を描いたりするわけですので、ここでは具体的な知識とかスキルが要求されます。
ものを作るときは、この時点で作り方なんかを考慮に入れる必要があります。

で、最後は作る。
これはもう、知識と経験の世界ですが、その達成レベルについては、やはりパッションが重要な役目を果たします。
理想に対して妥協しない、とか聞くと、何となく想像付くでしょう。

ざっとそんなところなのですが、実はここまでは前振りに過ぎません。

理想は高いのに、できたものがイマイチになっちゃうのはなぜなのか?

ゴールを設定する段階で、余計なことを考えている。というか、考えすぎている。
どういうことかというと、ここでは理想を考えないといけないのに、リソースを考慮に入れて考えてしまうと、大抵はショボい理想になってしまいます。

具体的には、予算とか設備とかスキルとか知識とか技術とか、そういったことです。
それらが足りないから妥協しよう、といったことを考え始めると、理想はどんどんショボいものに変化していきます。
ショボい理想から生まれたものがイマイチなのは当然でしょう。

「だってしょうがないじゃん!」
と思いますか?

ここで妥協するとき、何を考えているでしょう?

だって予算が無いから
何で予算を手に入れる方法を考えないのですか?
何で低い予算でできる方法を考えないのですか?

だって設備がショボいから
何でショボい設備で良いものが作れるように工夫しようとしないのですか?
何で良い設備を手に入れようとしたり、良い設備を持っているところにやってもらおうとしないのですか?

だって知識や技術が足りないから
何で知識や技術を手に入れようとしないのですか?
知識や技術を持っている人の助けを借りようとしないのですか?

「だって~だから」を解決したくないから、理想のレベルを下げざるを得なくて、結果としてイマイチなものができあがるわけです。
大抵はそういうことですよね。

では、なぜ「だって~だから」を解決したくないのでしょう?

面倒なことをしたくないとか、失敗したくないとか、自分の短期的な損得勘定が、理想のゴールに到達したいという気持ちより強いからですよね。

これ、正しいとか間違っているとかいう話では無く、自身のプライオリティがどうなっているのか、という話です。

なので、良いものを作れないのは、理想のゴールに到達したいという気持ちが弱い、つまりパッションのレベルが低いってことに尽きると思うのです。

さて、どうやって自身のパッションに燃料を投入しましょうか?
それで大抵は解決です。

つまり行動力か?

ものごとをうまく運ぶには、色々と細かい要素は必要だと思います。知識とか技術とか勇気とかパッションとか。
でも、それを得るためにどうしたら良いのかというのは、要素がはっきりするほどぼやけているような気もするのです。

抽象度を下げすぎちゃって、ゴールと細かい要素を埋めるものが無いというか何というか。
ちなみに、抽象度が高いのが抽象的で、低いのが具体的です。

で、これならどうだ?と思うのが「行動力」です。
どうですか?これならイメージしやすいのではないでしょうか。

どう動けば良いかがイメージしやすいでしょう?

今日はモビリティリゾートもてぎで行われた全日本学生フォーミュラ対象の試走会に混ぜてもらいました。

少々行動力の重要性を甘く見ていたウチの学生達は、満足にマシンを走らせることができず、さんざんな結果でした。
マシン側の準備不足、運用レベルの低さは、それをハンドリングしている学生達の低い意識レベル相応だということです。

こういうのって、口で「あーしろ、こーしろ」言って、それに従わせてみたところで、あまり意味がありません。
確かにそうやっていれば失敗は少ないかもしないし、言う方も楽になるかもしれませんが、果たしてそれは本人にとって本当の学びになっているのかが問題です。

手元の目に見える短期的な失敗は減ったとしても、果たして未来はどうなるのか?ということです。
教育って、未来のためにやるのですから、短期的に自分の面倒が減れば良いってものではないでしょう。

ヘボいマインドを持って、ヘボい結果を出したら、それに真っ直ぐ向き合って初めて自己評価ができるようになるのです。
それを真摯に受け止めて、次のアクションに繋げる。
それができなければ、いつになってもヘボいままです。

オーストラリアへの発送直前だというのに盛り上がって参りました。