チャレンジできる環境が重要です

若者に
「チャレンジしろ」
と言ったところで
なかなかそうもいかんのよ。

というのは
本人も含めて何とかしたいところでしょうけど
まぁ難しいですね。

原因の一つは
失敗は悪いことだ
のような価値観がガッチリ根付いている
というのがあって
そんなリスクを取りたくない
ということでしょう。

もう一つはルールとの付き合い方にあるのかな
なんて思っています。

ここにも書きましたが
何とかするのは言うほど簡単ではないかもしれません。

物事は大抵がそうですが
そもそもの最初は
ルールなんて無かったか
ユルユルだったはずです。

そんな中で目標を達成するために
思い付く限り色々やるわけですが
そこに徐々に規制が入ってきて
そのうちルールが複雑化してきます。

で、ルールありき
みたいにになってしまう。

産業界はもちろん
スポーツだってそうでしょう?
訳わかんないもの多いですよね。

そうなると
「まずやってみよう!」
のようなことは難しくなってきて
何かをやるには
まずルールを理解しなければならない
となって
複雑化したルールとのお付き合いが始まるわけですが
やりたいことをやっているのか
ルールにやらされてるのか
訳分からないことになったり
面倒だからルールなんてそもそも見ない
みたいなことになったり。

とか、色々あって
「言われたようにやれば良い」
のようになっちゃうのではないかな。

他にも色々あるのだろうけど
今日はこんなことを考えていました。
後期の授業も近づいていますので
そのネタを考えていますと
この辺を考える必要があるのです。

失敗は不安だし
ルールを守れないのも不安に繋がるでしょう。

成長していけば
いずれはゴッツい不安と向き合う時が来るでしょうけど
ビギナーのうちは
まずは面白い領域に入っていくことが重要なわけで
不安感は邪魔になります。

学生がレーシングカーを作って運用するなんてのは
色んな意味でリスクだらけです。

考えて、作って、壊して
そういう学びですから。
だからこそ大きく成長するのです。

そんなチャレンジは彼らにとっては冒険なわけで
不安はあって当然です。
なので、冒険ができるようにするためのセーフベースが必要なのですね。

そのためには、不安の要因になるもの
失敗などを受け入れることができる環境・風土が必要なのですね。

幸いなことに、本学は校風として良い風土を持っていると思います。
あとは、指導者の度量の大きさが鍵になるのでしょうね。

いやー、参っちゃうな、こりゃ。

というのも
教え過ぎや放置は、そもそも学びにならないし
モノがモノだけに危険も伴います。
そのへんのさじ加減というか
バランス感覚は難しいところです。

ま、四の五の言ってないで頑張ろう!
やりながら自分も学んでいくのです。

運命の自作方法

以前、マザー・テレサの言葉を紹介しました。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

これらのうち
他人が気付けるのは
言葉
行動
習慣
性格
くらいかな。
思考は分からないし
まして運命なんて分からない。

自分でも気付けないのは
…ほとんど全部

えー!?
自分のことなんだから分かるでしょう!?

そうでもないですよ。
たぶん、意識している人は意外と少ないと思います。
自分のことなのに
意外とセルフコントロールが効いていないことが多いと思います。

皆、自分は自分の思い通りに生きていると思ってますが
意外とそうでもないです。

思考も
言葉も
行動も
習慣も
性格も

多くの人は意識せずに
現状ができあがっています。
自分で作り上げたものではなく
できちゃったものです。

そして
多くの人は
それらに意識的に手を入れようとしません。

それが自分の人生で
仕方ないと思っている
もしくは
意識すらしていないことも多いです。

本当は、色々自由に
思った通りにしても良いのですけどね。
もったいないなぁ。

意地悪な人は
自分が意地悪だと言うことに気付いていないかもしれないし
それを直そうともしません。

悲観的な人は
自分が悲観的だと言うことに気付いていないかもしれないし
それを直そうともしません。

それによって悩んだりするのに。

分かっているけどやらないとしたら
それは分からないのと変わりません。

こういうのって
不思議だし面白いところでもあります。

こんなことが分かっていても
言うほど簡単ではないのは分かっています。

簡単ではないけど
色々工夫すると
色々面白くなることも分かってます。

他人を変えられないのは分かっているのですが
見えるものに対しては
アドバイスできます。

自分自身、まだまだなのですが
どうせ人間は完璧になんてならないので
自身もできていなくても
理想を語って
学生と一緒に成長するのです。

年長者だからこそ
できることや言えることもありますしね。

たまにはこういうことを考えて
自分を律するのは大事だな
と思っています。

安心が欲しいですか?

やっぱりね
みんな向上心はあるんだな。

ただやはり
心が安心を求める傾向が強いかな。

まぁ分かるな。

学校で働いているので気付いたことだけど
若者を取り囲む多くの人達
多くの先生とか親は
成功を望んでいるんですよね。
うまくいくことを望んでます。
うん、当然だ。

いつ、うまく行けば良いのだろう?

-今だね。

いつまで?

-ずっとだね。

つまり、失敗せずに
ずっとうまくいって欲しい。
そう!
失敗させたくないのね。

なので
「こうしなさい」
って言いますね。

言われたほうは
それを聞いて
覚えます。
知識が付いたってことです。

何でそうしなければいけないかとか
何が起きるかなんてことは二の次です。
言われたようにしようとしますよ。
失敗したくないものね。
なので
失敗を乗り越える知恵は手に入りません。

すると何が起きるか。

みんな似たようなことを知っていて
みんな言われたことをやる
そんな風になってきますね。
そりゃ当然だ。
そして、それが良い子だ。

基本ができてる!
凄いぞ!
完璧だ!
100点だ!

でもそこには
個性や創造性はありません。

だって言われたことだから。

なので
この100点は
実社会ではあまり価値が無かったりします。

言われたことがちゃんとできる人は必要でしょうけど
同時に個性や創造性を求めるなんて
無茶なことを言ってはイカンでしょう
と思うのですよ。

ちなみに周囲が
失敗して欲しくない
失敗させたくない
と思うと
そう思われているほうは
失敗したくない
と思うわけで
何を求めるかというと「安心」です。

なので
なにかアイデアが必要になると
安心な領域に向かっていきます。

どこから?

下の領域からです。
一歩一歩
やり過ぎないように。

あたかも
目隠しをされて
崖に向かって歩いて行って
ギリギリの縁で止まりなさい
みたいなことになる。

なので大抵は時間切れになりますね。

言われたことをキッチリ覚えて
キッチリやるようなことは
得意な人に任せておけば良いんです。

ただし、そういう人が間違えて
クリエイティビティが求められるフィールドに行っちゃうと

「で、お前、何ができるんだ?」

って言われちゃいますけどね。

なので
「あー、自分は言われたことをキッチリやるなんて
向いてないぞ」
と思ったら

細かいこと言ってないで
個性を発揮して
ドーンと行っちゃった方がいいんですよ。

そんな時に
「自分は何ができるんだろう?
何に向いているんだろう?」
なんて
行動せずに考え始めると
ドツボにはまることが多いのでご注意を。

そうそう
学校にいる限り
言われたことを最低限はできてないとマズイのですが
ドーンと行っちゃって
何かがうまく行き始めると
連鎖的に色々できるようになるってのはありますね。

結構前から
「安心・安全」
って、やたら言われるようになったでしょう?

「安心・安全」が大事なのは当然で
それをことさら言うようになるなんて変だな
と嫌な予感がしてたのですが
案の定ですよ。

「安心・安全」が欲しいなら追求するのも良いですが
皆が同じじゃバランスが取れない。

さぁ、これからどんな世の中になっていくのかな?