やりたいことをやりましょう

ブログ継続1年のプレッシャーから解放されて
正直ホッとすると同時に
ますますとりとめの無い方向性に走り出しそうな予感がしますが
ご容赦下さい。

自身のことを考えてみても
学生と接してみても
日本人って極端だなぁ
と思うのです。

そんなことないですか?

白か黒か
やるかやらないか

二元論に陥りやすかったり

追い詰められるとか
極端な状況にならないと動かないもんだから
やるときは凄い勢いでやって無理が出るとか
時に凄い結果が出ることもあるのでしょうけど。

でも結局
ゴールを設定した戦略的な思考が苦手だったりしませんか?

「戦略手な思考」って
別に難しいことを言っているのではなくて
考える方向が違うだけの話なんですけどね。

こういうの
何も日本人に限らないのかな?
皆そんなものなのでしょうか?

そういうのって
渡世術っていうんですかね。

でも、大事な考え方・やりかただと思うのですが
学ぶ機会がありませんよね。

みんな本を読んだり人から聞いたり
経験を積んだりして学んでいくのでしょうけど
先人達の取り組みと結果があるわけだから
基本的な知識として体系化できそうな気がしますけど。

いや、待てよ。

そんなことをすると
外部から突っ込む教育になっちゃって
結局は意味が無くなるのかな?

いえね、学校で知識を学ぶのは良いんですよ。
でも、それを何のために、どのようにハンドリングするか
そういうことって経験する機会が無いまま
学生達は社会に出て行くわけで
なんかもったいないなぁ、なんて思うのです。

いや、そうじゃないか。

専門的な色々な知識を身に付けたところで
それらがいずれ何らかの形になって…
なんてことは思いのほか無いものです。
そうじゃないですか?

なので、まずはゴールありきで
(「これやりたい!」と強く思えること)
そのために特定の学問が必要だ
(自ら「必要だ」と思うことが重要)
というなら分かるのですが
どうもそうはなってないですよね。

なので、学生は
何の役に立つか分からんけど
難しいんだけど
やらなきゃいかん
みたいなことになっていて
そんなのモチベーションが上がるわけなくて
で、つまらないからうまくいかない
そんなことになってないでしょうか。

もちろん全員がそんなことになっている
なんてことは無いのでしょうけど
大方は、そんな感じではないですか?

これ、書きながら
似たようなネタを繰り返しているな
と自覚しているのですが
やはり一番気になるのはこの辺なんですよね。

やっぱりね、好きなことを
バリバリ能動的にやらないとダメなんじゃないでしょうか。

この学校で学べば…
とか
この資格を取れば…
とか
この会社に入れば…
とか
誰々がこう言ってたから…
とか

で、そうすれば
将来安泰だとか
生涯年収が
とか思っているかもしれませんけど
そもそも途中で嫌になっちゃったら
お終いでしょうに。

そもそも
自分が安泰とか、儲かるとか
そんなもんのために仕事してたら
それを得るための我慢比べみたいになっちゃいますよ。
それでハッピーなわけないでしょう。

それに、みんな同じようなことを狙ってるんだとしたら
そこには希少性とか独自性とか無い訳でしょう?
それじゃぁ、そもそも価値が無いんじゃないかな。

だったら、やりたいことを突き詰めるとか
とにかく色々やりまくるとか
そういう方が健全で面白いんじゃないかなぁ
なんて思ったりしてるんです。

ま、結局は
何をどうしようと自由なので
自分が信じたとおりに頑張るのが良いのでしょうね。
そうすれば後悔はしませんよ。

そうそう
迷っちゃダメよ。
気持ちは分かるけど、時間がもったいないから。
やってみて失敗しても
長い目で見れば損にはならないから大丈夫。

うん、思った通り
話の筋が通って無いぞ。
タイトルに困るな。

放置といっても簡単ではなかったり

何かネガティブなことが起きた時には
自分のせいにしてしまえ
というお話しを以前しました。

難しいかもしれません。
でも、こういうのが
チャンスの分かれ道だったりするんですよね。

あとね
困難に遭遇したり
アイデアを出す立場に立った時に
心配しすぎたり
一つのものにフォーカスしすぎたり。

そんな時こそ
最初にワーっと考えを広げておいて
選択して
それから集中する
そういうプロセスが欲しいところです。

今回こういう話しをするのは
別に何かあったわけでは無いのですが
授業で学生が議論しているのを
横目で見ている時に
ふと思い出したりするんですよ。こういうの。

「あぁ、ありゃぁうまくいかんだろうなぁ」
って。

学生が反面教師で
学生から学んでるんかい!?

そうです。
学生から気付かされることは沢山あります。

で、授業中にそういうことについて
指摘するのかと言われれば
しないのです。
しないことにしてます。

以前はしてましたけど
最近はやめました。
ニコニコ見てるだけです。

というのも
そういうのを授業中に指摘しても
あまり…というか、ほとんど効果無いんですよ。
学生は「先生に怒られた」くらいにしか思いません。

そもそも授業を「やらされて」るんですから
そういう状態に対するするアドバイスは
言葉を柔らかくしても
「叱責」のような捉え方しかされません。

なので放置です。
放置じゃ聞こえが悪いかな。

やってみて
失敗して
その後に本人が
「何とかしたいぞ」
と思った時になら
アドバイスが「入る」でしょうね。

それに
失敗しないようにアドバイスしたところで
全く本人のためにならんですよ。
成長を妨げているようなものですから。

これ
単に放置しているだけ
と何が違うかと言えば
「必要な時が来たらフォローする」
と決めてるくらいの違いなんですけどね。

フォローする必要が無い時に手出しをすると
どうせ「やらされる人」になるだけです。

もちろん学生が失敗の末に
勝手に成長しちゃうこともあって
それはそれで大成功で理想ですね。

色々余計な手出しをすれば
中には感謝してくれる学生もいるかもしれませんが
どうでもいいんですよ、そういうの。

余計な手出しをしてしまう動機としては
大抵は
自分が学生に感謝されたいとか
先生って凄いって思われたいとか
学生がヘマこくと後々自分に面倒が掛かるとか
自分本位な欲だったりするんです。

そういうのが自分のゴールなのではなく
彼らが社会に出て
何かの役に立ってくれるのがゴールですから
いいんです。

なので、可能な限り
失敗の芽は摘まないことにしてます。

そんなの意地悪ですか?
いいんですよ、そう思われても。

失敗して
苦労した後の成功の方が
より面白いでしょう?

その成功がやってくるタイミングが
在学中なのか
社会に出てからなのか
それは本人次第ですけどね。

面白さは変化の中にこそある

最近の子って
凄い勉強してますよね。
なんか、みーんな塾行ったりして
遅くまで頑張ってるでしょう?
そんなことありませんか?

小学校だって
昔に比べたら
凄く難しいことやってませんか?

これ、徐々にそういう方向に変わってきてるんですよね。

純粋な疑問なんですけど
そうやって教育が「進化」して
そのおかげで
どのくらい世の中が良くなってるのか
それがよく分からんのです。

良くなってるんですか?
良くなってるから
その方向に強力にプッシュし続けているんですか?

私が子供の頃に比べて
店は年中開いていて
色んな物が溢れていて
物理的な生活環境は良くなって
身体的な快適度も向上している
ある意味、見た目は豊になっているのは間違いない
そう思うのですが

今に比べて教育のレベルが低くて
年中先生に殴られていて
喧嘩ばかりしていて
不便だらけの昔に比べて
幸せな時代になっているかというと
どうもそうは思えないんですよね。

確かに昔のような激しい波風は立たなくなってきています。
学生は、年々真面目で大人しくなっている
そんな印象も受けます。
学生と言い合いをするなんて
年々無くなってきているし
もちろん大した問題は起きません。

でも
「面白くなってきているか?」
と言われたら
NO
ですね。

見た目上のネガティブなこと
問題とか争いとか
そんなことは確実に減っている反面
何かこう、燃え上がるようなことも無いというか
面白くは無い。

たぶん、今はそういう時代なんですね。
ある方向に向かって動いている。

けど、そのうち行く付くところまで行っちゃうと
このままではいられなくなりますよ。
なので、時代の変換点を迎えるのでしょうから
特に心配はしていません。
いずれ変わる。

なので、自分の出来る範囲で
色々面白くしよう
というわけです。

ちょっぴりでも良いので
変化の原動力になりたいですよね。

幸いにして夢工房には
面白くしたいと思っている連中が集まっていますので
ここでどうやっていくかが問題で
世の流れに乗っかってもしょうがないのです。

とはいえ、夢工房の連中も最初は困惑します。

だって、今まで(特に高校まで)言われてきたことと
全く逆のことを求められたり
全く気にも留めなかったことが大事だったり
急にそんな環境になるのですから。

でも、面白さって
そういう中に隠れてたりするものですけどね。

受け身で流されて
変わらないまま
どんなに頑張って探しても
そんな中に面白さがあるはずないです。

変わる勇気さえあれば
もっと面白くできるはずです。