問題を提示してはイカンのでは?

問題提起なら良いのでしょうけど…

学校に限った話ではないかもしれませんが
問題を提示した時点で

「これが問題だ。やれ!」

になっちゃって
言われたからやる
みたいになっちゃうのですよね。

ただ、それが習慣化していると
「そんなもんだ」と思うでしょうけど

言われてやる

言われたらやる
になりかねなくて
言われないとやらない
に転化しがち

そうなっちゃうと、なかなか取り返しが付きません。
だって、楽だし、そもそも本人に自覚が無いから
変えようが無かったりします。

なので学校教育は
自発性が無くても知識を突っ込んでくれる
という利便性の高さはあるけど

自発性を要さないシステムになっているわけで
そんな環境で過ごしてきた学生に対して
「自発性を持て」
とか
何を無茶なこと言ってんだか
という状態になりがち。

そもそも学校の教育観って
教育とは
一方的に知識を伝達するものだ
一方的に受け取り覚えるものだ
となっているでしょう。

義務教育課程の一部は仕方ないのかもしれないけど
学校で問題を提示するスタイルだけで継続するって
思いのほか危険なのではないかな
と思っているのです。

学生達が、自分で問題を作ったり見つけたりするのが大事なわけで
能動的にそれができるのは
好きなことをやっている過程でしょう。

そんな気付きを得られるのも
夢工房の学生達を見ていたからでしょうね。

未来の問題を解決…は間違い

というのは、ちょっと言い過ぎなんですけどね。
ふと思ったことです。

例えば、少子高齢化が問題になっていますが
これを防ぐ
なんてのは、未来に起きそうなマイナスをゼロにするだけの話で
ハッピーではないのではないか?

結果としてそうなれば安心でしょうけど
そこを狙うってのは、どうも違うのではないか、と。

いや、別に安心しても良いのですが
安心を狙うって、意外と難しいのではないかな
という話です。

何とか狙ったラインに到達すれば良いでしょうけど
我々がやることなんて、そうそう完璧には達成できませんから
ちょっぴり不足しただけで達成は難しくなりますし
達成すると得られる感覚が
安心
では、ゴールとして設定するには
ちょっと弱いのではないでしょうか。

もっとポジティブなゴールを設定して
強力な推進力を得られる戦略を取って
その結果の一つとして、それが起きる
としないと、そもそも懸案の解消なんてできないんじゃないか?
と思ったのです。

今回は少子化問題を例に挙げましたが
我々がゴールに設定すべきものは、かくあるべきでは?
と言うのが、今回のお話しの本質なのでした。

どんな未来が欲しいのか
ゴールの、ビジョンの設定が大事だよね
と思うのです。

勉強ってなに?

勉強って、知識を知ったり覚えたりすることでしょうか?

それも勉強の一部でしょうけど
それが勉強なのだ
というのなら、全力で否定したい。

なので
勉強ができるイコール頭が良い
という価値観には違和感を感じるのです。

やってみること
それによって分かること・気付くこと
いわゆる暗黙知ですが

私としては、そっちを得る方が
よほど「勉強」らしいと思うのですけどね。
というか、それこそが勉強だと思っています。

暗黙知は、やることによって得られるので
より「できる」に直結しやすい。

対して、机の上のお勉強で得られる形式知は
言ってみれば知っているだけ。

利用することを前提に得たものではないので
密度も定着率も十分ではなかったりします。

そして、卒業後は
あっという間に忘れてしまうでしょう。

ただ、ある程度の実践経験がある人が持つ形式知は
暗黙知と結合して利用ができるので
単なる「知っている」とは次元が違っていて
価値が段違いだったりしますが。

一般的に、学生の学びのほとんど全ては形式知なわけですが
人生の今後の基礎を作る大事な時期を生きる
彼らの貴重な時間のほとんどに実践が含まれておらず
暗黙知が得られないのが残念でなりません。

でも、実際のところ
何をするかは彼ら次第であって
別に、受け身で指示待ちに徹する必要はないのです。

自分の好きなように決めて行動できる自由を持っていることを
気付いているか、気付いていないか
そこが明暗を分けているだけなのです。