ビジョンありき

日々学生と付き合っていると
考え方が大事
ということがよく分かります。

車を作るうえでは
色んなパートに分かれて仕事をするわけです。

そのパートを担当している設計者は
車の一部を設計することになるのですよね。当然ながら。

なので、小さな一つの部品を設計したりするわけですが
何も無いところから
突然、ある一つの部品の形を決めるわけではありません。

自分の担当パートの全体を見て
周辺部品との関係などを決めるのは当然ですが
それこそ車全体を見て
車のコンセプトに沿った設計をする必要があるわけです。

こういったことは
スキルと言えなくもないですが
どちらかというと
考え方の部類かと思います。

コンセプトに準じた設計をするためにどうするか
なんてことはまさに考え方でしょう。

仏像を作るのに
いきなり目から彫ったり手から彫ったりしないでしょう。
各部の造形ができるなら、全体が作れるわけではない。
知識やスキルがあれば、全てできるわけでもない。

仏像を彫るには
まずは材料をよく見て
その中に埋まっている仏様を取り出すように彫っていくのだ
というような話を聞いたことがあります。

理想的な仏様の姿形はすでに決まっていて(決めていて)
その実現のために彫るのだよ
という感じですかね。

こういう匠レベルの話は行き過ぎかもしれませんが
ものをつくるというのは総じてこんなふうに
全体のビジョンがあって
そこからブレークダウンして細部が決まるものです。

という考え方があってはじめて
必要な知識やスキルが明確化されていくわけですよね。
そりゃもちろん
ある程度の基本的なことは知っておく必要がありますので
相応の事前の学習は必要でしょう。

しかし
勘違いしてはいけないのは
基礎をどんどんやっていったり
その応用をやったりしていけば
最終的な製品に行き着くかというと
決してそんなことはないということです。

良い仏像を作るには
もちろん考える経験が必要で
作ってみる経験も必要でしょう。

しかし
最初にビジョンを思い描いて
その具現化のために努力をして
やっと作った仏像を眺めて…

「うおおお!こんなんじゃなーい!!」

と斧で叩き割る。

あれ?
こんな話をしたかったんだっけ?

ともかく
出来不出来はともかく
理想を実現するために
理想を描いて
その実現のために
細部をどうするか決める
というようなプロセスをグルグル経験して欲しいのです。

そして
苦労して作った車を走らせて

「うおおお!こんなんじゃなーい!!」

と叫んで
ヒーヒー改善して欲しいのです。

なので
経験が浅い学生が
小さい部品一つを設計するのに
どうしたら良いか分からなくて
手が止まっているのを見ると

「わははは。お前もか!」

と思う反面
「なるほど。これを何とかするのが自分の使命なのかもな」
とも思うのです。

今年は試される

ずいぶん長いことコロナ禍続いていて
皆さん参ったと思います。

夢工房も色々大変でした。

何せ「つくってナンボ」なのに
物に触れないのですから。

でも可能な範囲でジタバタやってきました。
色々やり方も変えました。

おかげで多くが高いモチベーションを保って
頑張ることができました。

意外なことに
オンライン環境下でも
彼らは結構な成長を見せてくれました。
特にマインドの面で。
これは正直なところ想定外でした。

今年はその成果が試される年です。

どういうことかというと
100%コロナ禍の環境を通り抜けてきた4年生の就職活動と
コロナ禍の中で入学してきた1年生、2年生を含めた
開発の成果が形になる年だからです。

4年生に関して言えば
果たしてこの期間でどれだけ
精神的に
技術的に
成長することができたのか
それが企業から必要とされるのか。
これは大変興味深いところです。

そしてメンバー達は
このような環境で
どんなマシンに
どんなチームに
することができたのか
それを大会で試されます。
大会が開催されればね!

当チームが狙っているオーストラリア大会は
12月の開催なので
ひょっとするとコロナは終息してるかも!

昨年は全ての大会が中止でした。
(正確には、マシンを走らせるイベントは中止)
なので
ひょっとするとオーストラリア大会が
コロナ明け初のイベントになるかもしれません。

まだまだ思い通りに動けない部分もありますが
条件は皆同じです。
この結果によって
我々のたどってきたやり方と
その方向性がどうだったのかが見えます。

最近では
スポンサーさんにお願いしている部品が仕上がってきたり
さらに新しいメンバーが加入したり
色々と勢いづいてます。

さて
どこまで行けるかお楽しみ!

モチベーションベースの学びへ

他人は変えられない
と良く言われますね。
実際その通りかと思います。

その理屈でいくと
学校で学生をいわゆる「できる学生」に変えることなんてできない
ということになります。
まぁその通りだと思います。

本人が変わりたいと望まない限りは何も起きません。

じゃぁ、学校は何もできないのか?
というとそうでもない。

基本的に大学なんかは
本当に学びたいことがそこにあるから行くわけで
本来そこに大した問題は無いはずなんですが
まぁ、そうはいきませんよね。

というわけで
伝統的なやらざるを得ない仕組みの登場です。

一定レベルに達しないと
進級できない
卒業できない
という仕組みです。

この仕組みは「恐怖」を原動力にしています。
なので多くの学生は恐怖から逃れることをゴールに設定します。

そして
やらせればやらせるほど
やりたくなくなっていく

この仕組みでは
最大限うまくいっても恐怖から逃れることができるだけです。
なので多くの学生が言うでしょう
「将来は安定した暮らし(楽な暮らし)がしたい」
って。
当然です。

そんなこんなやっていくと
本当は学びたいことがそこにあったから行ったはずの大学が
めんどくさい存在になります。
できればやりたくない
という感じ。

あれ?
希望を持っていたはずの学生が変わりましたね。
でも「そっちじゃないのになぁ」という変わり方です。

何度も言ってますが
そんな状態で得た「何か」
それはそんなに役に立つんでしょうか?

そりゃまぁ何もやらないよりは良いのかもしれませんが
もっと良いやり方があるはずです。

大学だって今まで何もやってこなかったわけではありません。

一頃、「ものづくり」の重要性に着目して
日本中の多くの理工系大学が頑張ってましたね。

そもそも理工系大学に行きたい学生は
ものが好きなので、モチベーションが上がります。
これはかなり効果が上がったのではないかと思います。

でも今は正直なところ下火になってしまっていると思います。
だって教える側がものをつくったことが無い世代に変わりつつあるから。

自分の専門じゃないことなんて教えられないじゃん
もの作ったことないんだから教えられないじゃん
と言いたいところでしょう。

とはいえ打開策はあります。

やったことがなくても
分からないことに関するアプローチ方法は
先生方は知っているはずなのですよ。
だって大学の先生って研究者ばかりなんですから。
何だか良く分からないものを明らかにする専門家ですもの。

ジャンルが多少違っても
物事の本質は同じだったりするので
何かのスペシャリストは他の色々なこともできたりしますし
自ら学ぶのも上手。

でも
学校は
特に大学は
(すでに)知っている人が
知らない人に
一方的に伝える(講義する)
そんな固定概念がある。
それが変化を邪魔します。

分からない連中が集まって
「どーすんだ、これ?」
とか言って
何でも良いからやってみて
何度も何度もやってみて
色々見えてくる

これ
本当の学びなんじゃないか
と思います。
そうやって得たものは一生忘れませんよ。

もし、やるだけやって
最終的にダメだったとしても
その中で学ぶことは大きいはず。
なので無駄なことは無いはずです。

もちろん
現状のような講義ベースの学びはあっても良いと思うのです。
でも、モチベーションベースの学びがあっても良いのではないかと思います。

いわゆる「賢い人」は
いつの時代も必要です。
でも、そんな人ばかりじゃ
どん詰まりになります。
賢い人は賢くリスクを回避しようとしますから。

問題は
何だかわかない
どうしたら良いか分からない
そんなことにトライするには
リスクを避けて通れないということです。

なので
これまた何度も言いますが
勇気ある馬鹿野郎が必要とされる時代が必ず来るはずです。

一応言っておきますが
ノータリンでもいいということではなく
必要なのはパッションですからね。

ノータリンだって…古いね(笑)