教育って何だ? 本当はダメじゃなかったりするんじゃないの?

東京電機大学は、単なる学力で言うなら中堅といったところでしょうか。
なので、基礎科目が得意で大好き!という学生は多くありません。
ウチは技術の学校なのですから、実践力を求めている学生が多くて、実際に技術を武器に社会で活躍している卒業生は多いのです。

で、そんなこんなで就職は良いです。今のところは。とはいえ、気を抜いたり手を抜いたりはできません。

ちなみに「技術」はモノに結びつくものです。技(ワザ)やら術(ジュツ)やらです。
もちろん「知っている」ことは重要ですが、知っているだけであれば、それは「知識」です。

一般的に、学校で勉強ができないとダメだという評価を受けるけど、本当にダメなわけではなかったりもします。
ある特定のものに対して特定の条件下で力を発揮できないだけだったりして、そういうのは別におかしなことではないですね。

実際のものづくりでは、「知る」「考える」ってところから、それを元に形にする「やる」「つくる」というプロセスまで、はたまたそれを「試す」とか「評価する」とか「改善する」とか、一連の流れがあるわけです。しかも解答はありません。
もし、それらのうちのどれかが得意だったりするのなら、それで突き抜けちゃえば良いのです。

そして、実際に目的のある最終形態がゴールとして設定されているなら、そのために必要なことに対して一所懸命になれたりするのも良くある話です。

いくら技術系の学校で学ぶとは言っても。多くの場合は目的が曖昧なままで、非常に限定的なフィールドで限定的なことをやっているだけだったりして、その動機付けが十分じゃない状態での尺度で能力を測って、その結果をもってダメってのはどうなのかな?と思います。

そもそも数字の評価って、現場に出たらそれほど意味無いよな、とも思うのですが。

教育ってなんだ?

世の中には色んな人がいますよね。

学校は、多くの人をいっぺんに面倒を見るわけで、色んな特性を持った者それぞれに適した対応なんてできません。

それはなぜか?
まず、多くが同じように知っていて欲しいことや、できて欲しいことがあるというのが一つ。
あと、効率が悪いからでしょう。
義務教育なんかはそういった部分が大きいでしょうね。
とはいえ、このやり方では限界があるのも確かだと思います。

それに今では、皆と同じように扱ってくれないと文句を言われる風潮もあるでしょう。
同じじゃないのに同じように扱え?何か不思議ですね。

さて、それはそれとして、私は根っからの教育者では無い、というか、教育者としてキャリアをスタートしたわけではないことが理由なのか、教育について色々と疑問を感じることがあります。

まず一つ。
言ったことをやらせるのが教育なのでしょうか。
もちろん、それも教育の一部なのは理解できます。
言われたことができるってのは大事なことでしょう。

でも、外部からの指示とか入力によってやらせることばかりが教育である…となっている気がするのですが、それは本当でしょうか。それで良いのでしょうか。

劣等生だった私でも、仕事をしていればそれなりにできることがあったわけで、それが楽しかったりしたので気付いたことがあります。

言われたことをやっているだけでは面白くないのですよね。
で、面白くないと思っているとレベルが上がらないのですよ。
面白くないと思っていると、面白くならないという当たり前の話なんですが、これ、当然でしょう。

で、教育現場に話を戻すと、ここでもやはり同じで、言われたことをやっていても面白くないでしょうから、成果は上がらないと思うのです。
つまり学習効果が低いはず。でしょう?

で、大学なんかは入学すると基礎科目みたいのをみっちりやるわけですよ。低学年のうちは。
必要性は分かります。大事ですよね。

でも、そればかりやっているとモチベーション下がっちゃうわけですよ。
大事なのは何となく分かるけど、何のために?ってのが良く分からないし、そもそも目的も良く分からないことを「やれ!」って言われ続けていれば、誰だって嫌になるのではないでしょうか。
私はなります。

それに、そういった科目がバリバリ楽しくできるなら、そもそももっとレベルの高い(と言われる)大学に行ってるはずなんですよ。

で、ここがポイントなのですが、いくらいわゆる基礎学力が低い学生でも、やりたいことが明確化されていて、モチベーションが高くて、絶対に欲しいものがあれば、それに付随する知識や技術を得ようとします。
それはもう、驚くほどの成果が出せるのです。
彼らの頭に無理矢理知識をぶち込む必要なんて全くありません。自分で取りに行きますから。
これは当研究室で多くの事例があるし、当たり前のことです。

恐らく、世の教育プログラムを考える偉い人達は、大した動機も無く勉強ができた人達なのだろうな、と思うのです。
なので、動機次第で凄い能力を発揮するなんて事例は信じられないし、認めることはできないのだろうな、と思うのです。

誤解のないように言っておきますが、私は東京電機大学が大好きです。良い大学だと思っていて、所属することに誇りを持っています。
ですが…と言うより、だからこそもっと良いやり方を模索したいのです。

つづく

そしてこれも足りない

果たして自分は追い詰められた状態でどうするのか?

まぁ、何によって、どのように追い詰められるかにもよるとは思いますが、何かをやっていれば、遅かれ早かれそんな状況「逆境」に遭遇したりします。

そういう状況で力が発揮できれば理想的で、それこそが自らの価値となるわけです。
達成感とかやり甲斐って、そういう所から来るものです。

難なくできてしまうことの方が良いんじゃないの?と思うかもしれませんが、難なくできるということは、それはすでに経験済みで、最初からできると分かっていることだったりして、自らの成長には繋がらないので、達成感とかやり甲斐を感じるほどのことではないでしょう。
スポーツなんかをやっている人なら常識的に分かっていることです。

そんなのは自分以外にもできる人はいっぱいいるでしょうし、やっても面白くもなかったりするし、そのうち飽きます。

その「逆境」を乗り越えるための準備としての経験が、社会に出る前にできていると良いですよね。様々なレベルで何度も。
そうしたら、仕事はより楽しめるはずです。

どんなに希望の会社に入っても、希望の職についても、大なり小なり逆境のようなものはあるわけで、そういうのに遭遇するたびに「これは自分には向いていない」なんて思って転職していたらキリがありません。

好きなことをやってみる、好きなことができそうな環境に身を置いてみる、それがすなわちチャンスの始まりなわけです。
だって、好きなことなら逃げたくないから、困難を乗り越える動機になるでしょう。

そんな環境で、追い詰められた状況を経験している人は強いです。

実は、「追い詰められた状況での経験は大事」というのは、私のお師匠様からの受け売りです。
私も経験上、もっともだと思います。

戦中戦後に頑張っていた先人達の強さというのは、絶体絶命の究極にシリアスな状況で、腹を決めてやるしかないという経験をしているところにあるのだろうな、と思うのです。
そんなのはとても真似できませんが、重要性は理解できます。

でも、好き好んで絶体絶命の状況に突っ込んでいく人は少ないでしょうし、むしろそういう状況にならないようにするために勉強してたりするわけですよね。
けど、チャレンジを続けていたら、遅かれ早かれそんな状況になったりするのですけどね。
で、その時君はどうしたいの?ということです。