オーストラリアのEV事情

というほど多くを見ているわけではありませんが、今回のツーリングルートで、ざっくり見たレベルでの話です。
忘れちゃう前に記事にしないとね。

メルボルンではテスラを見ました。でも、決して多いとは感じませんでした。
やはりEVと言えばテスラが代表格なのですね。
あとは、中国製のデッカイEVのSUVを1台だけ見ました。
そもそも充電設備を見かけませんでした。

アデレードとダーウィンではEVを見た記憶がありません。
充電設備は言わずもがな。

もちろん、内陸部ではEVは皆無です。
そりゃ充電設備が全くありませんから。

テスラは右ハンドル車の生産をやめてしまったそうなので、オーストラリアでテスラを見ることはますます無くなっていくと思います。
果たしてそこに他のEVが入り込んできて、普及するかどうか…。
個人的にはかなり懐疑的です。
あの大きな国では充電インフラの整備は困難でしょうし。

加えてお国柄というか国民性の問題もあるのではないかな。
これは個人的な見解というか、勘なのですが…

オーストラリアの人は英国からの移民が多いわけですが、彼らは結構経済観念がしっかりしている気がします。
EVの車両価格の半分は電池代なわけですが、使っているといずれはゴミになってしまう。そういうのを受け入れられないのではないかなと思っています。
オーストラリアの人は、結構長い期間クルマを所有する人が多いようですので、10年かそこらで新車価格の半分の費用を払って電池交換するなんてのは受け入れられないでしょう。

あと、ライフスタイルも大いに関係しているでしょう。
何せ、かの国で一番売れているクルマはトヨタのハイラックスです。
ディーゼルターボの四駆で、キャンピングトレーラーをグイグイ引っ張れるヤツが人気なのです。
他にも良く見るのは、同社製のランドクルーザー。
中古車屋さんでも、一番目立つところにに置いてあるクルマのウインドウには「Turbo Dieselだぜ!」とデッカく表示してあったりします。

見かけるクルマの多くは、トレーラーを引っ張るための牽引装置(Tow Bar)が装着されていることが多いです。非常に多い。
これはピックアップトラックだろうが、SUVだろうが、普通のセダンだろうが同様です。
そのクルマを普段使っていて、週末はトレーラーを牽いてキャンプとか、そういうライフスタイルなのでしょうね。
あと、ペトロールステーションでは、荷物を運ぶためのトレーラーがレンタルできたりしますので、普段使いのセダンで、ちょっと大物の荷物を運ぶのも簡単です。

次回オーストラリアに行って、現地人とゆっくり話す機会があったら詳しい事情を聞いてみることにします。

面倒なことを無くしたい…?

最近では、ユーザーの行動や嗜好を元にネットが提案してくれるわけで、自分の楽しみさえシステムが決めてくれるようになってきていると言っても良いでしょう。

余計な手間が省けて、とても楽ちんな時代になってきています。

ネット通販が発達してきたので、わざわざ買い物に出かける必要はないし、店員さんとのやりとりは不要で、色々我慢することもなくなる。ネットでポチればお買い物完了。

ガソリンスタンドはだいぶ以前からセルフ化が進んでいて、最近ではスーパーやホームセンターなどでも無人レジが増えてきました。
会計は自分でやっているにもかかわらず、なぜか楽チンな気がします。気が楽なのでしょうね。
で、それは、消費者側も供給側も同様でしょう。

そんな感じで面倒が減っているように感じます。

果たして「面倒」の正体はなんだったのでしょう?
人間間のやりとり、つまりコミュニケーションだったのでしょうか。
そうかもしれません。

でもこれ、なんか危うい気もします。

どういうことかというと、ものを売ったり買ったりするのは、人間同士の関係だということは会計方法にかかわらず変わらないはずなのですが、売る側、買う側相互に、相手に人としての価値を感じにくくなってしまうのではないかと思うのです。
価値の源泉は「人」のはずなのに。

面倒なことを削減するのが進歩だとしたら、それを追求していったら残るのは何だろう?

多くの場合、というか大抵は「面倒」の中には何かしらの価値が隠されています。
効率化を選択すると、失うのは面倒の中にあった価値なのかもしれません。

そんなことを考えていると、大きな意味での「サービス」は、今後は二極化していくのかなぁ、とか、そのうちお金を払って面倒なことをする時代が来るのかもなぁ、なんて思うのです。

なぜ残せない、伝えられない では、どうする?

好きなことを一所懸命やると大抵うまくいったりするものですが、そういう状態の時に、どう感じていたのかとか、何を考えてどうやっていたのか、そんなことをいちいち記録に残したりしませんよね。
好きなら好きなほど、一所懸命なら一所懸命なほど。
だって、やっていることそのものや、その成果に集中したいから。
「伝えるために残す」よりも「やる」のプライオリティが高くて、そこに力を注ぎたいたから。まぁ、当たり前の話ですが。

しかも、そうしている時は、その考え方ややり方が自分にとっては当たり前なので、特に特別なことをやっているなんて意識はていないことが多くて、なおさらでしょう。

なので、うまくいくための考え方とか取り組み方って、共有されにくいのだと思います。

我が国日本には、意外なほどノウハウなどが明文化されて残っていないのって、そういうことが理由だったりしないでしょうか。
「やる」に注力するのでノウハウが残らない。

だからこそ、昔ながらの技術継承は「見て盗む」というやり方になったのではないかとも思います。
もちろん、その方法が劣っているというわけではなく、メリットもあったりするのですが。

縄文時代に文字が無かったのもそんなことが理由なのかな、なんてことも思ったり、ツーリングなんか行って、写真を撮ると意外なほど記憶に残っていないってのは、そういうことなのかなぁ、なんてことも思ったりもします。

学生が一所懸命活動しているとき、ノウハウを残してくれると良いのですが、なかなかそうもいかなかったりするのも同様なのでしょうね。

そういうことができる人とか、そういうのが得意な人もいるのでしょうけど。
にしても、「やる」と「残す」を同時にやるとなると、自分の持つ限られたリソースを分割せざるを得ないわけで、大抵は「やる」が犠牲になります。
文書や情報を残しながらやるなら、やることそのものに注ぐリソースに制限が生じてしまう。

とまぁ、そういうことを考えるのですが、これに対して
「そんなこと言ってないで、やるべきこと(残すこと)をやりなさい」
と言うのが普通です。
確かにそれができたら良いでしょうね。

でも、今、力を注げることに全力を投入するという戦略もあると思うのです。

ただ、あまり極端なのもどうかとも思います。
これに関しても正解なんて無いでしょうから、色々やってみれば良いのではないかな。
結局は色々やってみて、自分のやり方を模索した末に、価値が構築されるのでしょうね。