なぜ残せない、伝えられない では、どうする?

好きなことを一所懸命やると大抵うまくいったりするものですが、そういう状態の時に、どう感じていたのかとか、何を考えてどうやっていたのか、そんなことをいちいち記録に残したりしませんよね。
好きなら好きなほど、一所懸命なら一所懸命なほど。
だって、やっていることそのものや、その成果に集中したいから。
「伝えるために残す」よりも「やる」のプライオリティが高くて、そこに力を注ぎたいたから。まぁ、当たり前の話ですが。

しかも、そうしている時は、その考え方ややり方が自分にとっては当たり前なので、特に特別なことをやっているなんて意識はていないことが多くて、なおさらでしょう。

なので、うまくいくための考え方とか取り組み方って、共有されにくいのだと思います。

我が国日本には、意外なほどノウハウなどが明文化されて残っていないのって、そういうことが理由だったりしないでしょうか。
「やる」に注力するのでノウハウが残らない。

だからこそ、昔ながらの技術継承は「見て盗む」というやり方になったのではないかとも思います。
もちろん、その方法が劣っているというわけではなく、メリットもあったりするのですが。

縄文時代に文字が無かったのもそんなことが理由なのかな、なんてことも思ったり、ツーリングなんか行って、写真を撮ると意外なほど記憶に残っていないってのは、そういうことなのかなぁ、なんてことも思ったりもします。

学生が一所懸命活動しているとき、ノウハウを残してくれると良いのですが、なかなかそうもいかなかったりするのも同様なのでしょうね。

そういうことができる人とか、そういうのが得意な人もいるのでしょうけど。
にしても、「やる」と「残す」を同時にやるとなると、自分の持つ限られたリソースを分割せざるを得ないわけで、大抵は「やる」が犠牲になります。
文書や情報を残しながらやるなら、やることそのものに注ぐリソースに制限が生じてしまう。

とまぁ、そういうことを考えるのですが、これに対して
「そんなこと言ってないで、やるべきこと(残すこと)をやりなさい」
と言うのが普通です。
確かにそれができたら良いでしょうね。

でも、今、力を注げることに全力を投入するという戦略もあると思うのです。

ただ、あまり極端なのもどうかとも思います。
これに関しても正解なんて無いでしょうから、色々やってみれば良いのではないかな。
結局は色々やってみて、自分のやり方を模索した末に、価値が構築されるのでしょうね。