自由に伴うもの

興味深いテーマなので何度もネタにしていますが
自由は大事です。

自由は「自分に由る」
「自分で決める」ということです。
自分で決めるのだから
責任は自分にあるのは当然です。

責任を持ちたくないということになれば
自分で決められないということになります。
それでは自由ではなくなってしまいます。

自分で決めないということは
責任は他にあるということになります。

そういうトレードオフです。

なので、いざ「自由にやる」となったら
自分で決めて行動するとなったら
「腹を決める」のが重要なのですね。

責任を引き受けるのは勇気が要ります。
もしダメだったら批判されたりしますものね。

でも、だからこそ分かることや、得られるものがあるわけで
そういう経験を積み上げていくことって大事です。

勇気を育むもの
勇気を持ちたいと思えるもの
そういものを持ちたいと思う経験

そんなことが夢工房にあるべきなのですね。

次の世代に託すもの

「若い世代に同じ苦労を味わって欲しくない」
良く言われる言葉です。
というか、良く言われていた、といった方が良いのかな。
かつては、特に戦時を過ごされた方から聞くことがあったと思います。
でも、最近ではあまり聞かないかな。

これ、単に「苦労して欲しくない」と捉えることができるし
本人もそういうつもりで言っていることが多かったのかもしれません。

気持ちとしては大変ありがたい。
実際に、苦労のタネを除去しようと頑張って下さる方もいる。

その結果として、次の世代が実際に苦労なく生活できたとしたら、それは本当に幸せなのかというと、そんなことはないと思います。

数十年前の子供時代は、未来はクルマが空飛んで、人の代わりに機械が何でもやってくれて楽ちんな生活がやってくる、なんて脳天気な未来予測をしていたりしたわけですが、そんな未来はやってくるはずもなく、そんな未来が本当にやってきて、我々人間が何もしなくて済むようになったら、それこそ存在する価値すら無くなってしまうわけで、そんな想像すらできなかった恥ずかしい過去は誰しも持っているのではないかと信じたい。

苦労の質と、本人がどう捉えるかという価値観の問題もあると思うので一概には言えませんが、次の世代は、その世代が担うべき固有の苦労があるわけですし、先人が除去してくれた苦労の先にある苦労をすることになるのだなと思うのです。まぁ、当たり前のことなのですが。

それを見つけたり、関わることができなければ、存在意義とか存在価値が得られなかったりするわけで、むしろ苦労することが生きていることの証だったりしないでしょうか。

まぁつまり、現代に生きる我々は、現代ならではの苦労のタネを見つけて頑張るからこそ生きている実感を得られるわけで、その辺は腹を決めないと面白くならないだろうな、なんてことを考えていた次第です。

我々はどこに向かうのか

以前にも書きましたが、私は歴史なんて全く興味が無い少年でした。
ですが大学に来てから一時期、技術の発展について講義するような授業をやっていたことがありまして、その際に技術の歴史をちょっと勉強しました。
技術は生活のためにあるわけで、その時々の人の暮らしと対比しながら色々と調べていったわけです。それはそれは古い書籍を漁ったりして。

ここで言う技術は、いわゆる「メカ」に限りません。単純な道具から、医療や衛生なども含めた広範囲なものです。そこで実感したのは、技術によって人が死ななくなったんだな、ということです。
新生児の死亡率が低下したり、寿命が延びたりといったことです。

近年、CO2の排出を含めた環境問題が声高に叫ばれていますが、それらは生活のための技術から生じたものであって、それはここに至るまでは凄まじい人口の増加を支えてきたわけです。現に環境問題が叫ばれる一方では、人口爆発に伴う食糧難が懸案となっています。

でもやはり、何かを得れば、動じに何かを失っているわけで、そのツケが溜まっちゃったということですね。それにしても、地球環境に影響を与えるほど人間は大規模な活動をしているわけで、こりゃ凄いな、とも思います。

内容や規模こそ違うものの、これに似たような問題かつてもあって、人類はそういう問題を解決しながら現在に至っているわけで、今後果たしてどうしていくのかな、というのは大変興味深いところです。

一方で、戦争とか紛争とか、そんなことを延々と繰り返しているわけで、一体何やってんだよ、と思うわけですが、同時に人間の本質って何なんだろうなぁなんて思ったりしているわけです。これまた興味深いです。