意外や意外

今日はキャンパスの行事として、1年生に向けてクラブ活動の紹介などがあったので、夢工房には入れ替わり立ち替わり新入生が見学に来てくれました。

印象としては、「コロナ禍からの再起動が来たぞ!」という感じです。
新入生からは、かなりポジティブな印象を受けました。

恐らく彼らは、高校の3年間は我慢ばかりだったのでしょう。
ここに来て、それが一気に外に向いて動き出したという印象を受けます。
とにかく今年の1年生はレスポンスが良いです。
これは全国的な傾向なのでしょうか。

だとしたら、日本の今後もまんざらでもない…と言ったら言いすぎかも知れませんが、大いに期待を持てそうな気がします。

実を言うと、今年の1年生に関しては、あまり期待していなかったのです。
悲観的になるのは良くないのですが
「ひょっとしたら、自粛の空気感の中で押しつぶされちゃってるかもなぁ」
なんて想像していました。

それを良い形で裏切ってくれましたね。
良かった良かった。

今回、どれだけの人数が夢工房の活動に加わるかは分かりませんが、今年は既存のメンバーも新人と共にジャンプアップしたいところです。
なので、積極的に工夫したり変化したり、よりチャレンジングな1年にしていきましょう。

長いこと我慢した彼らのご褒美が手に入ると良いですよね。
もちろん彼ら自身の努力によって手に入れるのです。
そうじゃないと意味が無い。

こっちは、そのための環境とかチャンスとかヒントとか
その辺をどう整えるか。ってとこですね。

価値の変容と技術者教育の今後

やはり世の中の価値観が変わってきていることを感じます。

以前は「合っていること」
つまり「正しい答え」に価値がある時代だった気がします。

これは時が経って
次の時代に変わったからこそ感じられることだと思います。

インターネットの登場と発達によって、誰もがあらゆる情報に簡単にアクセスできるようになったために、それらの情報の価値が低下して、労せずに情報を手に入れることができるようになったためでしょう。

さらに今後、AIの開発が進んでいけば、それはますます加速して、より簡単に「答え」を知ることができるようになります。

なので情報や理論の価値は収縮していって、単に「正しい答えを知っている」だけでは価値にならない時代に突入していくのでしょう。

ということは、今のスタイルの学校教育の限界が来てしまう。
「正しい答えを覚えさせる」教育が中心ですから。
少子高齢化や二極化がそれを加速させるかもしれません。

一応言っておきますが、正しい答えを知っていなくても良いということではありませんよ。

ちょっと極端な例かもしれませんが、「正しい答え」のような理屈だけでは子供は増えなかったし、自殺者も減らなかった。
誰だって理屈の上では、子供が増えなければ国の未来が危ういとか、自殺は良くないなんてことは分かりきっているはずです。
でも、どうにもなりませんでした。論理だけでは解決できなかったということです。

もちろんこれらには他にも色々な要因があるので、こんな風に言ってしまうのは乱暴なのでしょうけど。
でも、この辺を考えてみるとやはり心の問題なのだろうな、と思うのです。
これからは心の時代だぞ、と。

私の職場では、技術者を育成するための教育をしていますので、教えるのは技術的な理論が中心です。

その理論は何に必要なのかというと、エンジニアリングをするためです。

エンジニアリングは何のためにするかというと、収益を上げて経済を回すためですが、端的に言ってしまうと、お客さんに買ってもらえる商品を作るためです。

なぜお客さんが商品を買ってくれるかというと…買いたいからです。
買いたくなったからです。
理屈では無く、心の問題です。
「正解だから」買いたいわけではありません。

お客さんは、カタログのスペックや価格も気にしますが、数字だけでは買ってくれません。

「お!いいじゃん!」
て買ってくれるのですが、その心の動きは理論になりません。

もしそれが理論として成立するなら、商売人やエンジニアは「回答」に従って仕事をすれば済むのでしょうけど、そうはなりません。

また、エンジニアが良い仕事をするにはパッションが必要ですが、それが分かっていても簡単にはいきません。
「こうすればパッションを持てるよ」なんて答えもありませんし、あっても簡単には従えません。

単にものを作るための知識とか情報は、今後ますます容易に手に入るようになるでしょうし、ものを作るための技法は容易化する可能性があります。3Dプリンターのように。

さて、では今後は大学で何を教えるべきなのでしょう?
というのは風呂敷を広げすぎかもしれないので、今後の夢工房はどうあるべきなのでしょう?
にしておきましょうか。

人の心という厄介なものと、何のために何をどのように作るべきなのか、そういうのを学生と一緒に考えながらチャレンジしていく
そんなところが大まかな内容になるのでしょうね。まぁ、今と変わらないのですが。
これは今後整理して、分かりやすくまとめていく必要がありますね。

最終的に収束すべきところは「実学尊重」と「技術は人なり」
これは変わらないのですけどね。

成長のアプローチ

言われたことをやる
余計なことをやらない・言わない
結果として効率が良い
学校での評価は高いし
たぶん家でも良い子

成長のアプローチは
やり過ぎないように
少しずつ要求値に向かっていく。

こんな人は
いわゆる「コスパがいい」
薄利多売の製品を作る
ルーチーンワークが多い仕事に向いている。
たぶん。

言われてもいない余計なことをやる
失敗も多い面倒な子
結果として効率は悪い
学校での評価は低いかもしれないし
家では面倒で心配な子

成長のアプローチは
急にドカンとやって
やり過ぎた分を削るように
最適値に向かう。

こんな人は
人の心を動かす
付加価値の大きい
クリエイティブな仕事に向いている。
たぶん。

これを入れ替えてしまうと
ちょっと面倒なことになる。

薄利多売でルーチーンが多い仕事に
後者を投入すると
「なに余計なことやってんだ!」
と理解されないことが多い。

付加価値が高くクリエイティブな仕事に
前者を投入すると
「言われたことしかできないのか!」
となりやすい。

もちろん前者も後者も
どちらも社会には必要なのだろうから
どちらにも成長できるような環境があってしかるべき。

ただ、時流によって二者のいずれが
より必要とされるかは変わってくるので
それに合わせた環境の変化は必要だろう。

今の人を育てる環境は
恐らく前者を育てるための
やり方と物差ししか持っていない。

多くの若者達は
そんなことは百も承知で
損しないようにするにはどうしたらいいのか
と模索している。
たぶん。

でも、そういうのに適合できない
やり過ぎ野郎もいるわけで
その場合は悩むこともあるかもしれません。

でも、そんなやり過ぎ野郎が社会に出て
自分が動けるフィールドを得たら
そりゃぁ楽しいでしょうね。

やはり学校向きとか社会向き
というのはあると思っていて

どちら向きとも言えないタイプは
まぁどちらでもボチボチなのかもしれませんし

どちらもソコソコうまくやっちゃう
そんなタイプもいるでしょう。

でも、どちらかに向いているタイプは
学校と社会で全く逆の評価となる
そんなことが多いと思います。

最近は、学校では目立たず無難に過ごして
社会に出たら行き詰まっちゃうケースが多いのかな。

学校で勉強はできたのだけど
仕事が全くできない
というケースも耳にします。

夢工房では
「こりゃ、学校向きじゃねぇなぁ」
というのが理想型だったりします。

そんな資質を大事にしていきたい。
きっと本人はもちろん
世のため人のためになるから。