やらされるやり方がダメにする

学校において「やる」というのはどういうことか
何が動機になっているか

言われたことをやる
言われたからやる

大抵はそんなところです。
違いますかね?

「やる」イコール「やらされる」
そんなことばかりじゃないでしょうか。
違いますか?

言われて、やって
それがうまくいけば100点満点で最高評価です。
受け身がデフォルトです。

でも
やらされることが当たり前で
そんなことばかりだと
そのうち嫌になるんですよね。

そうなると
「できればやりたくない」
とか
「最低限にしたい」
とか
「あとでやろう」
となる。

消極的ってヤツですね。

受け身で消極的
それが普通。

それがを識できている場合もあるでしょうけど
多くは意識できないでしょう。
それが普通で習慣だから。

そしてそこに
「失敗したくない」
が加わる。

「最低限にしたい」に
「失敗したくない」が加わると
ちょっと目には、効率の良いやり方をしているように見えたりしますが
経験が不十分なのにそういうやり方しちゃうと
大抵はうまくいきません。

だって、そういう感情ってネガティブだから当然。

本当は、ダメでもいいのでアイデアを沢山出すべきなのだけど
経験が無いことに加えて
最低限の手数で「正解」を得たい
なんて思うので
当然「正解」を探すのだけど
ものづくりだと
特に新しいものを作る場合は
そもそもそんなものは無かったりするのですね。

そんなものは無いので
どうしたらいいか分からなくて考える
考えても進展は無い
そうこうしていると締め切りが迫る
時間が無いから失敗できない
でも経験が無いから一発でうまくいく方法なんて知らない
時間切れでおしまい。

学生を見ていて気付きましたよ。
大好きなことをやっていても
やらされているときと同じやり方をしちゃったりする。

真面目そうなコほど
そうなってたりするのが皮肉です。

学生達は、日々そんな風に考えて
そんな風になっちゃう訓練をしているようなものです。

別にこれは最近に限ったことではなくて
「自分も、そんなことになってたなぁ」
なんて思ったりするのですけどね。

これ、何とかしなければいけません。
このまま続けていたら面白くならないどころか
マズイことになりそうです。
学生に文句を言っている場合では無いのです。
彼らの意思でそうなった訳じゃないでしょうし。

もちろん自分で気付いているなら
ぜひ脱出して欲しい。

やらされるマインドで
仕事を楽しめないから自分の価値も作れなくて
人のせいにして文句ばかり言って…
そんなの自分だけじゃなく
周囲だって楽しくない。

学校教育なんて、恐らくそう簡単には変えられないでしょう。
とはいえ、何とかしないと。

ものづくりの中には、きっとこの方向性を変える何かがある。

ひょっとしたら
コロナ禍が落ち着いてきた今が
世の中がザワザワしている今がチャンスなのかもしれません。
何も起きていない平常時なんて、何かを変える必要はありませんから。

さぁ、どうやってひっくり返そうか!?

人生に無駄なものは無いってことか

ポジティブな動機による行動とか成功体験とか
そんなことばかりだと良いのでしょうけど
実は、個人的にはそうは思っていなかったりする
というお話しです。

恐怖や不安、怒りなど
ネガティブとされる感情が行動原理になっているのは
一般的には好ましくないとされますし
私もそう思います。

そんな感情を持ってしまう根源には必ず原因がある。
その原因は、かつて自分が仕掛けたことで
何を仕掛けたかによって
何が起きるかが決まる。

何を仕掛けるかは
その時自分がどう思っていたかによる。

そういうのを人のせいにしたりもできるけど
でも、よくよく考えてみると
大抵は自分が何とかできたことばかり。

と、そんなことを考えるのも
かつてネガティブな感情が動機となって
うまく行かなかった経験があるからで

まぁ人生そんなもんだし
そこから気付くことがあるなら
まんざら無駄な経験でもなかったよな
と思うわけですよ。

凄いことを成し遂げた人なんて大抵は
とんでもないことをやっていたり
悲惨な目に遭ったり
色んな経験を経た末に
立派なことを達成したりしているわけで

波風立てずに
荒波に揉まれもせずに
気付いたらうまくいっちゃった
なんて人はほとんどいないでしょう。

夢工房の連中に求めるのは
素直に言うことを聞いて
言われたことを忠実にこなして
他人の手を煩わせずに
と、そんなんじゃないのですよ。
そんな薄っぺらな経験をして社会に出て欲しくない。

できることを全力で…に限らず
できるかどうか分からないようなものでも
熱意を持って本気でやると何が起きるのか
そんなことを身をもって経験して
世の中を盛り上げていける人になって欲しいのです。

ネガティブな感情を行動原理にするのはいかがなものか
と思う反面
そういう感情を有効に利用することが大きな力の源になったり
それが成長のきっかけになることもあるので
これまた一概に悪いとも言えない場合もありますけどね。
そればかりでもどうかな、と思いますけど。

まぁいろいろありますね。

修行の本質

今まで、24時間以内に東西南北それぞれの「端っこ」に行く1Dayチャレンジなどをやっていました。
これが他人から見れば楽しいツーリングに見えるかどうかは分かりませんが、自身は楽しいツーリングと簡単に割り切れないと思っています。
実際それほど楽しくないし、感覚的には昨日も書いたとおり「修行」です。
もちろん、やり切れれば充実感はありますが、やっている最中はキツイですよ。
絶対に目的は達したいから、そのための計画や努力をするのですが、変に無茶しすぎると本当に危ないので、引き際も大事です。何かあったら他人にも迷惑が掛かりますし。

さて、今までの1Dayチャレンジは、目的地に到達するまで1300kmから1500kmくらい走って、翌日は数百キロ走ってフェリーに乗るパターンでした。

「端っこ」に到達するまでは、結構高いモチベーションを維持できるのですが、問題はその後です。

翌日は、かなり疲れているのですが何とかなります。
なぜなら、フェリーに乗るという目的があるから。
これをエサに頑張れるのです。パブロフの犬です。

問題は、フェリーを降りてからです。

家に帰るというのは、私にとってモチベーションの源泉とはなりにくいのです。
終わりを意味する「帰宅」では燃えてこない。
精神的な疲労感がピークに達するのは、帰路のうち、自宅へ向かう行程です。
だからこそ、チャレンジの仕上げとしては、最も大事なパートなのでしょうね。だからこそキツかったりもする。

つまり、昨日の「修行」は、その最もキツイ状態が、行程の半分の690kmもあったということです。

とはいえ、「1日で青森往復をするのだ!」というのが多少なりともモチベーションを維持する材料になっていたというのはありますね。

こういうことをやっていると、目的がモチベーションのレベルを決めるというのが良く分かります。

そもそも、何のための修行なのだ?
というのが最も大事なところなのですが、それは色々で、具体的なところはまだ内緒です。

その色々を別としても、一つ言えるのはチャレンジをやめたら終わりだな。とういうこと。