100点が最高だなんてのは幻想だ

言われたことをやる
そうすると褒められるシステムはおかしい
なんて思う私はひねくれ者でしょうか?

そうではありません。

単なるひねくれ者ではなく
出来の悪いひねくれ者です。

なんでこんな始まり方をするのかというとですね
こんなことを思ったからです。

学校では、言われたことを100%こなすと
「100点満点」という最高の栄誉を獲得します。
これより上は無くて文字通り最高です。
一番良いのです。

でも
社会に出た時に思ったのですよ。

言われたことが完璧にできると…
普通じゃん。

言われたことをやるって
普通なんですよ。
全く最高では無いわけです。
言ってみれば「ゼロ」かもしれない。
マイナスじゃないけどプラスじゃないから。

学校のテストで60点未満が赤点なら
60点って感じです。
ってのは言い過ぎ?

ともかく
普通の仕事
当たり前のことをして
喜ぶお客さんはいないのですよ。

「これ、くれ」
というオーダーに対して
「はい」
と手渡す

で、喜ぶお客さんはいない。
当たり前なことが起きただけだから。

「じゃぁ、超絶に優秀じゃないとダメなの?」

それでもいいけど
そうじゃなくてもいい。

要は、言われたことを
超絶優秀にこなすことができなければ
他の方法で勝負してもいいよね
ということなんですよ。

まぁ、納期を守るなんてのは当然として。

ピンポイントでも
何かしら強みを持っていれば良いと思います。

会社組織なんてのは
色んなことができる人が集まっているのだから
分からなければ誰にでも聞けるし
できないことは得意な人にやってもらうこともできる。

ただ、忘れてはいけないのは
義理と人情です。

当たり前のように他に依存していたら
相手は気持ちよくないわけで
そんな人間関係では
組織としてのパフォーマンスは向上しません。

開発職でありがちなのは

設計と試作の現場が不仲であるとか
設計と事務方が不仲であるとか

そんなところだと思います。

設計が試作を下に見ている
なんてのがあったとしたら最低です。
彼らのゴッドハンドに敬意を払うべきです。

偉そうなことを言うなら自分で作ってみろ
という話です。

彼らがいてくれなくては
どんなに素晴らしい設計だってモノにはなりません。

そもそも試作にいる職人さんが怖くて
ロクに現場に顔を出せなくて
対応や調整ができなくて怒られるとか
そんなのは新人の頃によくある話だと思いますが
そのまま年齢を重ねて中途半端にキャリアを積んだりすると
そういうことになりがちではないでしょうか?

あと、事務方から何か言われて逆ギレしちゃうとか。
「誰が稼いでると思ってんだ!?」
なんてね。

「少なくとも、あんた個人じゃねぇよ」
と言いたい。
「誰のお陰で仕事が回ってると思ってんだ?」
と。

そもそも同一の組織内で
そんな考え方に至ってしまったら致命的です。

そういうのは
「仕事ってのは言われたことをやるもんだ」
なんて価値観でやっていることが
原因ではないかと思うのです。

何も100点満点君じゃなくても良いのですよ。
ピンポイントの強みは何でもいいのです。

力学が得意とか、材料の知識が豊富とか
そんなのではなくても

とにかくチャレンジするとか、すぐやるとか、諦めないとか
気が利くとか、思いやりを持って仕事ができるとか
そんなことだって突き詰めると強みになる。

で、そんなことでも継続していくと
結構仕事ができるようになっちゃうものです。

夢工房の学生達は
「即戦力になりたい」
と日々頑張っていますが

何も「即戦力」という「型」があるわけではなく
やり方は色々。

彼らはヘタに分業しすぎない…というか
システマチックに分業できるようなリソースが無いので
各人が色々やる必要があるわけで
結果として色々できるようになっちゃうわけですが

そういう経験で
考え方やスキルを手に入れるのはもちろんなのですが

将来的には
他部署や他社や、お客さんの気持ちが分かる
エンジニアになって欲しいな
とも思うのです。

何を変えようか?

現状に満足いっていないなら
現状に何か不満があるのなら

自分の何かを変えなければならない

当たり前のことなのだけど
忘れがち。

そもそも自分の何をどう変えるのか
その判断と行動は難しいし
そこに考えが及ばないことも多い。

でも、現状を変えるにはそれしかない。

自分を変えない
という前提で考えて
問題解決を自分の外
つまり他人に求めると
大抵は悩みに繋がる。

多くの悩みの根源は
人間関係から来ているから。

それに気付けない場合も多いし
気付けたとしても
自分を変えないのは
防衛本能に根ざしていたりするので
結構手強い。

そもそも不満をぶつけられた本人にしてみれば
一方的にオーダーされたような形になるので
素直に従いにくい。

不満があって文句を言ったりしても
大抵は何も変わらない。
自分の外のものなんて
そうそう変わらない。

なので
文句や愚痴を言ってストレス発散
なんて嘘っぱちだ。

その文句や愚痴は
どこにも向いていないので
何も変わらない。

根源が変わらないのだから
結果が変わるはずはなくて
ストレスの逃げ場はない。

それに文句や愚痴を言う時
大抵は自分は何もしていない。

当然だ。
自分のせいじゃない
と思っているから。

ヘタをすると
文句や愚痴を言うことが
行動だと勘違いしていたりする。

現状に不満を感じながら自分は何もしない
その結果生じる負のエネルギーで
おかしな不毛のループは回り続ける。

そこから電力でも取り出せたら
少しは人類の助けになるのかもしれないけど。

と、こんなことを書いているのは
何か頭にくることがあったり
参っちゃっているわけではありません。

そんな時に、こういうことは冷静に考えられませんから。
冷静に考えられるうちに自分に刷り込んでおくのです。

「そういうのは不毛だ」と。
「自分が変わるしかない」と。

もちろん自身も含めて現状に満足はいっていないので
心の自己点検という意味合いもあります。

人生は修行ですなぁ。

現物には敵わない

博物館に行ったりすると思うのですが
やはりリアルには叶わない。

何が叶わないって
ネットの情報とか書籍とかがです。

個人的には
書籍は電子情報に比べると
まだ物体っぽい気がするのですが
それは情報としての印象ではなく
情報を封入した媒体としての物体である
みたいな
ちょっとズレちゃってる価値観なのかもしれません。

でも、電子情報は紙媒体みたいに
ペラペラめくることができないという欠点があったり
「これだけ読んだぞ」
という物質としてのボリュームを持たないという
所有欲を刺激しないのですよね。
これって貧乏くさい?

まぁ、それはともかく
博物館で現物を見るのはとても勉強になるのです。

ある文物の存在は知っていても
それを何かしらの媒体に記録されたもので見るのと
現物を見るのでは大きく異なります。

物を見れば
その大きさや形、色や質感など
文字や画像に記録できる以上の情報が手に入ります。

あたかも人対人のコミュニケーションで
口から発した言葉の何倍もの情報が伝わるように
現物と媒体を介した情報では
天と地ほどの差があります。

例えば
エジプトのピラミッドは
多くの人が知るところで
形や大きさなど、大筋の情報は誰もが知っています。
しかし、現物を見て得られる情報とは比較になりません。

アメリカやオーストラリアの荒野や砂漠は
色々な媒体の画像で目にすることができますが
実際に行ってみて見るもの、感じることなど
トータルで得られる情報は膨大で
とても文章で伝えられるものではありません。

個人的には、名所旧跡は大好きなのですが
いかにもな観光地に行くより
むしろ何も無いところに行くのが好きだったりします。

あたかもそこには「無」という強大な存在があるような…
あるんだか無いんだかよく分からない変な表現ですが
そんな場所は
とても言葉や文字
ましては写真でも伝えるのは困難です。
だからこそ、そんな場所が好きなのかもしれませんが。

そんなことを考えていると
オンライン教育の限界が見えてきたりもします。
「空手」の通信教育は不可能であるように(変な例えですね)
オンラインででできることに限界があって
物体にかかわる我々のような仕事は
やはり現物がベストです。

博物館の話に戻りましょう。

もちろんそこには
貴重な文物があるわけで
それが本物なら
それを見るのはとても貴重な経験で
多くが学べます。

もしそれがレプリカならどうなのか?

それは出来にもよるのでしょうけど
本物のような
いわゆる「ありがたみ」はなくとも
それなりに学べることは大きいものです。

昨日行った、古代オリエント博物館には
ハンムラビ法典が刻まれた巨大な石柱のレプリカがあったのですが
ヒビとか傷とかも精巧にに再現されていて
「これ、本物か?」
と思わせるほど説得力のある出来でした。

ここまでくると、レプリカの制作にも匠の技が生きているのだなぁ
と、むしろレプリカの作り方が気になって仕方なかったのです。

高さ2.25mのこんな石柱の表面に
くさび形文字がびっしり刻まれているわけですよ。

Wikipediaより

写真では細かいくさび形文字がよく分からないかもしれませんが
こういう遺物って凄いですよね。
逆にエジプトの遺跡みたいな巨大なスケールのものも同様ですが
「よく作ったよなぁ」
と思います。

そしてその後には
「敵わねぇなぁ」
と思うのです。

そもそもテクノロジーの発展の根底にあるのは
そういう面倒なことをやらずに済まないだろうか
というところなのですけどね。

ハンムラビ法典の全ての情報をUSBメモリに入れたところで
容量的にはスカスカでしょうけど
このレプリカの存在感や空気感ですら情報としては記録できません。

そういうのは
このブログだって同様なのですけどね。
いったい文字でどれだけ伝わるのか、と。
でも、やる。