鎖国下の漂流者たち

数年前から、思い付いたように
たまに読む本のジャンルがあります。

それは漂流記というか
漂流した日本人の伝記です。
それも鎖国の頃の。

当時の日本は、当然ながら外国には行けなかったわけですが
そんな時代にも図らずも船の難破や漂流により外国にたどり着き
思いもしなかった環境でベストを尽くした人達がいます。

実は結構な人数がいたようなのですが
代表的なところは以下の3人だと思います。

尾張国の音吉
遠州灘で難破、14ヶ月(!)漂流ののちアメリカに漂着
Wikipedia

中浜万次郎(ジョン万次郎)
足摺岬沖で難破、無人島の鳥島に漂着し143日間生活
アメリカの捕鯨船に救助される
Wikipedia

浜田彦蔵(アメリカ彦蔵)
紀伊半島沖で難破し2ヶ月漂流
アメリカの商船に救助される
Wikipedia

中でもジョン万次郎は有名ですね。
以前の記事にも書きました。

今読んでいるのはアメリカ彦蔵 通称「アメ彦」の自伝
古本を買ったら、なんと自分より年上でした

こういう人達の伝記は、まさにリアルな冒険記なわけですが
当時の内外の様子や、ものの考え方、価値観が生々しく記されていて
とても興味深いし、今だからこそ参考になることが多いです。
もちろん、当時のものの考え方などが
そもまま現在に利用できるわけではありませんが。

もちろん当時は鎖国していたので
一般の人はまともな外国語の教育なんて受けているわけはありませんし
漂流した彼らは、そもそも満足な教育自体受けたわけでもなかったりします。
が、最終的には立派な仕事をしていたりします。

音吉は初めてイギリスの地を踏んだ日本人ですし
ジョン万次郎は知っての通りの有名人で、帰国後に活躍しました。
アメリカ彦蔵は、アメリカの大統領と初めて会見した日本人だったりします。

そんな彼らの伝記を読んでいると
「うん、やればできるんだよな」
と思います。

こういう時代の、こういう人達を参考にするのはどういうことかというと
そもそもの日本人のポテンシャルや
日本の若者の潜在的な可能性を知ることができるのではないだろうか
と思っているのです。

外国の偉人伝も参考になりますが
日本人の話の方が説得力がありますから。

冒頭にも書きましたが
実は鎖国の時代でも海外には結構日本人がいたようです。
事情は様々ですが。

興味がある人は、ネットでちょっと調べてみてください。
驚いちゃいますよ。

キミは誰?

自分がどういう人間か
というのは自分が決めているのですよね。

これ、意外と意識されていないことだと思います。

今の自分がどういう人間かというのは
過去の行いで決まるわけですが
それは自身の思いとか考えによる行動で決まるということです。

で、結果
今の自分がある。

であれば
今、何を思ってどう行動するかによって
これからの自分を作っていけるわけなのですが

どういうわけか
多くの人は今のやり方、今の在り方を
キープする方を無意識で選んでしまうことが多い気がします。

今現在の自分がこうなっているのは仕方ない
のような考え方をしていたりしませんか?

なんで「仕方ない」のでしょうね。

もちろん、そうしたいならそれでいいのだけど
それでは満足いかないなら
どうなりたいかは自分次第なのですけどね。

学生は、言ってみれば
未来の自分を作るために学校に行っているのでしょう?

であれば、過去に囚われること無く
それこそ、今現在の自分にさえ囚われること無く
新しい自分を作ってみたらいいのです。

そんな変化を楽しめるようになるには
何が必要なのでしょうね。

私にとっては
それこそが興味深いところだったりします。

技術継承に思う

昔ながらの職人さんは
弟子に対して手取り足取り教えません。

ではどうしていたかというと
「見て盗め」
です。

これが昔ながらの技術継承です。

対して学校教育は
学ぶべき内容を具体的に示します。

だいぶ違いますね。

双方ともメリットもデメリットもあるとは思います。

でも実際に
「見て盗め」
で素晴らしい職人さんが生まれて
良い仕事を引き継いでいたのは事実です。

何でそんなことができたのでしょうか。
どう思いますか?

もちろんこれは厳しいやり方だと思います。
本当にその仕事をやる決意が無いと続かないでしょう。
なので、本当にやる気のある弟子しか残らないでしょう。

それはそれとして
興味深いのは
「見て盗め」
で何が起きているかです。

以前、昔ながらの日本の刃物は
「鍛接」という技法で
炭素分の多い固い鉄と
炭素分の少ない柔らかい鉄を接合している
という話を記事にしました。
実際に自分でやってみたということも。

この時に改めて思ったのです。

「知ってる」と「できる」は違うぞ
と。

鍛接の方法は、本を読んだりネットで調べたりすると分かります。

で、理屈で知っているとできるかというと
できないのですよ。

知っているけどできない。

刀匠にこの話をしたら
「難しいでしょう」
と笑ってました。

師匠が弟子に技術を継承する際も
似たようなことが起きるではないでしょうか。

言ってもできない
分かっていてもできない
そんなことが。

「見て盗め」では
弟子は必死に師匠を真似る
そのうちに
いわゆるコツを掴んで
できるようになるのでしょうけど

そこで何が起きているかというと
結果として製品の最終形態は似たようなものができているのだけど
実はプロセスに含まれる細かい手法なんかは
多少モディファイされている可能性があって
弟子本人がやりやすいやり方や工夫が含まれているかもしれない。

あえて言わない伝え方だからこそ
継承者による最適化が含まれていって
技術が磨かれて生き残るのではないかな
なんて思うのです。

そして
「知ってる」と「できる」の両方を掴んで
独立していく
と。

その後
知識のみを教えるやり方が発達したり
産業の発展と共に生産技術も発達して
効率の悪い昔ながらの技術継承は無くなってしまって
今のように「知ってる」と「できる」が分離されて
それぞれが専門化していったのでしょう。

でも、これが行きすぎると
「知る」に特化した「専門家」では
やったことがないから分からない世界があるわけで

知識のみに偏ったやり方があってもいいのだろうけど
そればかりになってしまうのは問題で
そういうジレンマにぶち当たっているのが今なのかな。

そもそも理屈というのは
実践から生まれるもので
理屈ありきではなかったりして

理屈で分かっていてもできないことはたくさんあります。

ただし、理屈を知っていれば
色々便利なことがあるわけで
それを活用しないと世代を重ねる上での進歩がなくて
いつになっても石器時代ですね。

何事も極端に走るのではなく
中庸が大事だということでしょうか。