アクティブとパッシブ

アクティブ・セーフティという考え方があります。
自動車の場合、衝突事故を例にとるなら
ぶつからないようにする安全技術です。
例えば、アンチロック・ブレーキ(ABS)とか
スタビリティ・コントロールなど
危険を目前にして、車体が制御不能に陥ることなく
回避動作を取れるようにするものです。

これに対して
パッシブ・セーフティは
事故が起きた瞬間から後の話です。
例えば、シートベルトやエアバッグなど
事故が起きた際に衝撃を緩和したりして人を守るものです。
車体の構造などでも工夫があって
クラッシャブル構造などは
衝突時に車体が変形していくことで
衝撃を吸収・緩和する考え方です。

さてさて
現在の学校での学びは
ほぼ例外いなく「やらせて」いるわけで
これはパッシブ
つまり「受け身」の学びで
これが普通になっています。

そもそも他人にやらされることが学びだ
みたいな価値観はどうなのだ?
とも思いますし
外的な動機で学ぶには限界があります。

自分の立ち位置や興味から
かけ離れた高等な知識を得たところで
それを実践する機会が無いのであれば
それは果たして役に立つ学びと言っていいのか?
とも思いますが
かつてはそういう形で
多くが一定の知識やスキルを持つ
そんなことが重要だった時代があったということです。

もちろん現在も、そういうスタイルが
時と場合によっては
必要で重要なのは変わらないのでしょうけど
受け身でやっている限りは限界があるのも事実。

やらされることなんて
遅かれ早かれ嫌になるものです。

自ら「知りたい」「できるようになりたい」
となれば、本当の学びになって
受け身の限界を突破できるでしょうし
それは社会に出てからも継続されるでしょう。

自ら望むことができたときの感動が大事で
それが継続的な学びの動機になりますから。

そこでアクティブラーニングの登場となるわけです。

が!しかし!

アクティブラーニングを「やらされて」いるとしたら
それは「パッシブ」に他ならないのではないか
と思ってみたり。

まぁ今は過渡期なのでしょうから
仕方ないのでしょうけどね。

何が言いたいかというと
学生達が好きなものを作って
本気で競い合うなんてものこそ
本当のアクティブラーニングだと思いますよ
ということです。

進歩の功罪と感情のコントロール

「肝が据わっている」
なんて言い方がありますね。

大抵の場合、想定外の事象に対してうろたえたりしないとか
度胸があるみたいなことでしょうけど。

予測できないことが起きることに対して
どのような感情を持つか
というのが根底にある
と思っています。

感情で言えば
安心の反対には心配があるわけで
心配側にどんどん寄ってしまうと
極端な場合はパニックになるかもしれません。

そんな極端な例はともかく
それらの領域のうち
どの辺を好むのか
そんなことも結構重要なのかな
なんて思ったりしています。

基本的には以下の二者かな
と思います。

安心するために安定したい人
同じことを繰り返して
同じ結果が起きることを望む人

同じことを繰り返すのが
我慢できない人
変化の中に喜びを見出す人

でも、ものごとにもよりますかね。

まぁ、世の中には
両方いてくれないと困るわけですが。

あることは安定していて欲しいけど
別なことには変化を望む

そんなこともありますね。

安心から心配にかけてのグラデーションのどこに閾値があるのか
そして、どの程度その閾値と距離を取りたいのか
そんなことも行動原理になったりするでしょう。

さて
なんかこう閉塞感を感じる環境の根源は何なのだろう
と考えたとき、一つは
多くのことに対して予測ができる世の中
になっちゃっているからなのかな?
なんて思うのです。

ヘタすりゃ
やる前から、すでに正しい答えが決まっている
というような世の中になってきているのかな。

それは技術の進歩によるものなのかもしれません。

技術が進歩すれば
あらかじめ安全な結果が起きることを予測して
それをやれば安心が得られます。

そういうのがどんどん進んでいくと
予測が付かないことはやらない
みたいなことになるのは当然なのかもしれません。

でも、新しいことなんてのは
やってみないと分からないので
そういう方向性でいくと
新しいことが生み出せなくなりますね。

するとその後はどうなるか?

まさに成長曲線ですね。
グイッと上向いたら
その後は頭を打つ。
王者必衰。

その後どうするかは本人次第。

感情が安心を求めたら
予測が付かないことはやりたくないでしょうし
そこから得ることも学ぶことも無いでしょう。

自分の感情をコントロールする
なんてたまに聞きますが

悲しいのを我慢するとか
嬉しいのを押し殺すとか
そういうことばかりではなく

自分が求めている感情を変化させる
そういうことこそ大事なのではないかと思うのです。
でも難しいことですよ。

だって、自分がどのような感情を求めているかなんて
普通は意識していませんから。

ただ
肝が据わった人になりたいのなら
チャレンジして
出た結果の評価とフィードバックをして
グルグルして経験の数を稼ぐ。
これに尽きるのではないかと思います。

すると
予測の範囲が広がるし
結果に対する対応にも
過去の経験が参考になったりするので
色々と応用が利きますから。

そうなったら
突発的なことにも対応できるし
パニックにはなりにくいでしょうね。

そんなことをしながら
忘れてはいけないのが
タイムマネージメントです。

考えるにしても
やるにしても
時間は有限ですから。

失敗しないようにじっくり考える
失敗しないようにゆっくりやる
そこにフォーカスしすぎると
大抵は時間切れになってお終いです。
それを本当の失敗と言います。

しかし
グルグルサイクルの数が結果を決めるのですから
1サイクルを早くする必要があります。

でも、考え無しにやってもダメで
慌ててやり過ぎてもダメ。

そのサジ加減こそ重要なのでしょうが
それも経験によって掴むもの。

さて、どうしましょう?

迷ったら「やる方」からトライして調整していくのですよ。

キミはどこに立ってる?

人は何かしらの集団に属しているわけで、そこでどのような立ち位置にいて、自分が為すべき事は何なのか。その辺の認識は大事だと思うのです。

それは本人にとっても
賊する組織にとっても。

何で突然こんな話をするかというと、学校という組織に属する学生は、主体性や自主性を求められていたりしますが、急にそんなことを言われても難しいよね、と思ったからなのです。

というのも、多くの学生は、社会構造の中では単なる「消費者」だし、学校では、環境やら何やら与えられる立場であって、自分から供給するとか、自分から何かを変えていくという経験があまりに少ない。
というか、そんなことを求められる機会がほとんど無い。

しかし、僅か数年後にはまるで逆の立ち位置に立つことになるという、なかなか微妙な情況にいるわけです。
大学生であれば、20年くらい継続してきた立場を、わずか4年程度でひっくり返す必要があるのです。
しかも、多くはそうなっていることに気付かないまま…ですよね?

というか、そんなのは自分で気付けということなのかもしれませんが、気付くチャンスはそうそう無かったりもします。

そんな経験ばかりで、夢工房でやっているような自発性を求められる活動をすると、しばらくはどうするべきかを掴みかねる状態が続きます。
経験が浅ければ、分からないこと、できないことだらけなので、それは仕方ないことかもしれませんが。

環境や組織に対して批判的な意見を持ったり、モチベーションが上がらないのを環境のせいにしたり。そんなことが当然起こります。

まぁ、客観的にそういう状態になっているのを認識するのは良いことだと思いますが、あたかも評論家のような一方的なものの見方をされても
「そりゃキミの環境に関することなんだから、キミ自身が解決すべき問題ではないのかね?」
って話なのですけどね。
でもまぁ良くある話です。
気持ちが「お客さん」で「消費者」なのであれば、そう感じて当然でしょう。

でも、この状態に至って、それを乗り越えて主体性を身に付けていくのであれば、これは必要なプロセスでもあるのです。
この辺で何度か記事にしていますが。

主体性だの自主性だの自律性だの言ったところで、最初からすんなりうまくいくケースなんてほとんど無かったりするわけで、その過程においては何かしらの問題とか不足とかがあるのは当然で、それを乗り越える経験こそが成長だと思います。

こういうのって、これから社会に出るエンジニアの卵にとっては、クリティカルに重要だと思うのですけど、もし授業でこういうのをやろうとしたら、すごく面倒なのです。
実は数年前までは、こういうことを体験できる授業があったので良く分かっています。今は無くなってしまいましたが。私はそういうの、大好きだったのですけどね。

でも、夢工房では、その辺の価値観の入れ替えを必要とする活動を20年以上にわたって継続できていて、めでたしめでたしなわけなのです。
まだまだ改善は必要で、道半ばなのですけどね。