視座とか自己変容とかのお話し

やっていることがうまくいくためには
別に最初からうまくいく必要は無いのですよね。

特に初めてチャレンジすることならなおさらで
むしろ最初はうまく行かないのが当然。

なので、まずはやってみて
どうしたらうまくいくのかな?
と工夫することが大事なのです…が!

今の自分はどうなのか?
という視点を持っているのか否か
その自己評価の結果を行動に移せるのか?
それがその後を決めるわけです。

それが無いと
うまく行きそうもないやり方で
いつまでもズルズル行ってしまったり
同じような失敗を繰り返したり
そんなことになります。

それは当然なことなのですが…

自分の現状を見る視点
つまり「視座」ってヤツですが
最初は無いものなのでしょうか?
無いでしょうね。

では、何かをきっかけにそういう
ものの見方ができるようになるのか?

ならない場合はなぜなのか?

そんなことが今日、ふと気になりました。

「これでいいのか?」
と自らに問い、変化する
いわゆる自己変容ってヤツですかね。

ネットで検索すれば色々出てくるのですが
そういう情報って
本人が自己変容を求めているなら参考になるのですが
どうしたらそこに至るか
という情報はありません。

まぁ、良く探せばあるのでしょうけど
今気付きました。

そんなことを考えてるってことは
誰かを変容させたいのだけど
そんなの外力じゃ無理なわけで

結局は本人が欲しないと無理ですね。

求めよ、さらば与えられん
ですよ。

となると、やはりカギになるのは環境ですね。
うん、結局はそういうことだ。

どうも当人を見てしまうと
直接いじりたくなってしまう。

そういうのも時と場合によっては必要なのだろうけど
やはり環境をどうすべきか
というところに注力すべきなのでしょうね。

視座が低くて自己変容できない学生は
結局のところ
そんなことを望んでいないわけです。
だからそうなっている。
超シンプルです。

なので、現状から変化したくなる何かが必要なのですが
それはやはり環境でしょうね。
それしかない。

学生には
「視座を変えなきゃ」
みたいな話をするのですが
自分の視座を変えることを忘れてはイカンですね。

「若い」というのはチャンスなのだが

学校のお勉強、もうちょっと何とかならんのか
という話です。

まぁ、何というか
授業として恐らく扱う内容それぞれは
重要なことではあるのでしょうけど
順番が逆というか何というか…。

まず、動機付けの部分が弱いと
どうにも「やらされている」ということになっちゃうわけです。
本人がやりたいと思うところからスタートしないと
どうにもならないでしょう。

そもそも、やる気になれないものを
できるようにするって
凄く難しいことではないでしょうか。

内容に関して言うなら
要素がバラバラ過ぎちゃって
知識にしても技術にしても
どうやって実務に活かしたら良いか
想像しにくいでしょうね。
というか
そういうのは無理なレベルになっちゃっているような気もします。

これは最近に限ったことでは無いのですが
例えば、機械関係のことを大学で学ぶとなると
製図とか、加工の実習とか、実験などの授業があります。

これらはものを開発するなら必須の経験を
授業という単品要素に落とし込んだものですが

では、そういう単品をやると
開発の一連の流れができるかというと…
面白いくらいできません。

例えば、実験の授業をやったところで
実務における「本当の実験」なんてできません。

製図も実習もしかりで、例えて言うなら
鉛筆の持ち方を学んだんだけど文章が書けない
みたいなことになっちゃってる気がします。

そもそも最も大事な
何のために何をどうするの?
というような最も重要な
根源の部分を考える機会なんて無いわけで

そんな状態で「やらされて」いたら
残念なことになっちゃうのは当然なのでしょうけどね。

さて、今回は何が言いたかったかというと
やはり学生が主体性を持って
プロジェクト活動をするというのは
最高なんだな
といいうことなのです。

でも、そこに加入した1年生は
「やらされる」感覚が抜けていなくて
フルパワーで動くようになれない
というか
それは習慣になっちゃっているので
まるまる1年くらいは時間を無駄にしちゃうわけで
凄くもったいないなぁ
というのが毎年思うところ。

まぁ、何もしていない学生に比べれば
はるかにマシなんでしょうけど
学生にとってのこの時期は
大きく人生を左右する可能性があるのですよね。

高校だって義務教育じゃないのだから
プロジェクト活動みたいなことをバンバンやって
主体性とか「やる」ことの面白さとか
そういうのを体験させたらいいのになぁ
とも思います。

「若い」ということは
それ自体が大きなチャンスなのですが
むざむざそれを捨てちゃってるような気がするのです。
あぁ、もったいない。

ただ、同時にこれは
夢工房の環境を彼らにとってもっと魅力的にする必要がある
ということであるのかもしれないわけで
その辺は検討と改善が必要です。

学生の本分は勉強だが

学生の本分は勉強だ
と言いますね。

それは分かります。
その通りだとも思います。

でも、その「勉強」って何だ?
という話しなのです。

何のためにやるのかというと
基本的には未来のための準備ですね。
程度の差はあるでしょうけど、ビジョンがあって
その実現のために必要だから。

多くの場合、そのビジョンは将来の仕事に関することでしょう。
仕事を通じて、自ら何かしらの価値を生み出す必要がある。

そもそも人は相互に価値を供給しながら依存しているわけだけど
これができなければ仕事ができない。

仕事ができなければ生きられないかもしれないので
生きるための価値を生み出すための
根源となることを身に付けるためと言えるかもしれない。
ずいぶん大げさな表現かもしれないけど
原理的にはそういうことでしょう。

自ら価値を生み出せないなら
他から奪うか、他に一方的に依存するしかない。

前者は我が国のルールでは禁じられているし
後者では心がもたない。

さて、では勉強は何をするのか?

理論とか公式とか、その他のものごととか
形式知を知り・覚えること
それによって、課された問題を解くこと。

それも大事でしょう。
けど、それだけで良いのでしょうか?
それが一番大事なのでしょうか?
皆がそれで良いのでしょうか?

そこが大変気になるところ。

私は、そのようにして得た知識の多くを忘れてしまっています。

仕事をしていると、覚えていても役に立たない
不要なものを頭の中に残しておく余裕はありませんでした。
開発のような刺激の強い仕事ならなおさらでしょう。

そもそも、テストをクリアするために暗記するように得た知識は
学校を卒業すると大半は忘れてしまうものなのだそうです。
半分どころではなく9割近くに達する場合もあるとのこと。

そんなものなのですね。

度重なるバイクでの転倒とか
出来が悪くて、しょっちゅう殴られていたためのパンチドランカーとか
そもそも能力が低いせいで学校で習ったことを忘れちゃったのだと思ってましたが
どうやらそれだけではないようです。
あぁ、良かった。

対して、実行・行動によって得た暗黙知の場合は
単なる暗記ではないので、そもそも忘れにくいし
仕事で最も役立つのはこれです。

机の上のお勉強が無意味とは言いません。

でも、何の役に立つのかという実感がないまま
記憶し続けるのは無理で
そんなのは結局役に立ちません。

動機がなく、言われたことをやる・やらされること
そんなのはいずれウンザリするし
身に付かないのは当然ではないですか。

何のためかも良く分からずに
言われたことをやるとか覚えるとか…
言われたことをやるのが勉強なの?

それ、単なる作業じゃないですか?
テストという数十分で終わっちゃうイベントをクリアするために
4年間もそんなことを続けるの?

もちろんそういうのも必要で大事なのは分かります。
ですが、それだけでいいの?
それが勉強の本質なの?

理想的なのは、自ら進んで学ぶこと
それが必要だと実感していて
それが役に立つ経験をして
その結果を次に繋いで大きくしていく。

そんなダイナミックな学びの経験が
理想的なのではないでしょうか。