戦い方をどこから学ぶか

私は、いわゆるミリタリーオタクではありませんし
軍事的なものを特別よく知っているわけでもありませんが
軍事的なものの考え方は大変参考になると思っています。

戦訓とか地政学とか
戦略的なものの考え方を学ぶ機会があったらなぁ
と思うこともしばしば。

というのも
戦争に関わることって
大勢の命が掛かっていることなので
当然ながらレベルが高いのです。
色んな意味で。

もちろん戦争は起きて欲しくありませんが
先人達が命がけで取り組んだ結果、残されたものは
大事に使うべきだとも思います。

それに
技術の面で言えば
軍事技術と民生技術の明確な境目なんてありません。
乱暴な表現になっているかもしれませんが
そういうものだと思っています。

戦略の考え方などは
あらゆる分野に適用できます。
あと兵站についての知識とか。

正直なところ
自分はこういう戦略的な考え方とかは
得意な方では無いと思っています。
むしろ苦手かもしれません。
にしても、重要なのです。

レースなんかやっていると
結局はこういうことを必要とせざるを得ないのです。
競争=戦い
ですから。
恐らく他のスポーツも似たようなものでしょう。

もちろんこういうことは
仕事や日常生活にも役に立つと思います。

何もランボーみたいに暴れろとか
他人の隙を虎視眈々と…
とかってことではないですよ。

競争の前には準備があって
その前にはトレーニングが必要なわけで。
良い成果を出そうと思ったら
ちゃんとした準備は重要です。

勝ちたいと思ったら
役に立ちそうなことには色々手を出して
学ぶ必要があります。

そういうのを超本気で
高いレベルでやっている事例から学ぼうと思ったら
戦争の歴史とか
国防関係の知識に行き着きます。。

開発の手法だって
軍事的なところからきているものは結構あります。

というわけで
クルマ好き、バイク好き、レース好きな人って
なぜかミリタリーオタク多い気がします。
飛行機にやたら詳しい人とか結構いますもの。

さて
ここまで引っ張ってきましたが
今回は
非対称戦
というワードについて触れておきたかったのです。

戦争と言えば…
いえ、この場合は正確には「戦闘」ですが
どういうものを想像しますか?

双方が似たような兵器を繰り出してぶつかる

ですよね。

非対称戦は
その字のごとく
双方が似たような形態でガチンコ勝負するのではなく
大部隊に対するゲリラ戦
のような戦い方です。

多くの学生達を見ていると
どうも正攻法で真っ向から
ぶつからないといけないと思っているようなんですよね。

そんなことありませんか?

勉強にしたって
皆が同じようなことをできなきゃいけないような
そんな感じ。

ヘタすると
基本をしっかり押さえるのは大事だけど
それ以外は要らない
みたいな。

レースでどうしても勝ちたいときに
それをやったらお終いです。

もちろん技術とか実力は大事です。
それは基本です。

でも、強い相手に対して
敵の得意な方法でぶつかっていくのはバカです。
美しいかもしれませんが。

どうしても勝ちたかったら
王道とか、形式とか言っている場合ではないのです。

歴史を持つ強いチームは
大抵は層の厚い大所帯で
しっかり戦略を練ってきます。

それに対して
歴史の浅い小規模なチームが
同じやり方でいくなら
やる前から敗北確定です。

大きなチームは
物量にものを言わせて
立派な計画を立てて
いわゆる「消耗戦」で来ます。
正攻法ってヤツです。

それに対しては
迅速な意思決定や行動
相手の弱点を突くなど
いわゆる「機動戦」を仕掛ける必要があります。
言ってみればゲリラ戦ですね。

なので
すでに強い大規模チームと
チャレンジャーである小規模チームは
自ずと求められる能力が異なってきます。

消耗戦では
物量はもちろん
しっかりした基礎知識とか
明確なノウハウとか
情報の伝達などが効いてくるでしょう。

機動戦では
不明確なものに対処する即興性とか
経験に基づく豊富な暗黙知とか
言わずとも分かる「あうんの呼吸」とか
その辺がものを言うでしょうね。

夢工房の学生達がどちらを取るかは明確ですが
彼らに必要なことは
非常に教えにくいのです。

でもやります。

学びの中に喜びはあるか

昨今の学校、特に大学には、学びの中に喜びはあるのだろうか
と思うことがあります。

そりゃぁ全く無いということはないのでしょうけど
もっとあっても良いと思うのです。

だって、自分のやりたいことをやるために行ってるんでしょう?
特に大学の場合。

もちろん
大学が悪いとか
学生に原因があるとか
そういう二元論では語れない状態だとは思います。

昔々はどうだったんでしょうね?
それこそ
寺子屋とか藩校とか学問所なんかがあった江戸時代とか。

その頃ももちろん家族に「行け」と言われて行った
なんてのもあったでしょう。
藩校になると
武家の子息が行くのだから
立派な武士になるために学ぶ必要があるのだ
と言ったところでしょうか。
私塾とか学問所ともなると
本当にやりたいことがあって
そのために学びたいから行く
そんなところでしょうね。

昭和初期は小学校卒も珍しくはなかったのだと思います。

松下幸之助氏は小学校中退
本田宗一郎氏は高等小学校卒です。
お二人は共に明治の人ですが。

昭和初期の義務教育は尋常小学校までですから
卒業時は12歳。
その後に高等小学校もしくは中学校に進んでも
卒業時はそれぞれ15歳、17歳です。
ちなみに当時も大学はあって、卒業する年齢は今と同じです。
もちろん、現代ほど多くが行ったわけではありません。

近年では
大学に行くのは別に珍しくもなくなっているし
これから大学院もそうなるのかもしれません。

ドラッカーはずいぶん前に
それこそ半世紀も前に
こうなることは予想していたようです。
凄いですね。

ドラッカー曰く
時と共に労働寿命が延びて
それに伴って知的労働が増加して
そのために教育も長期化するのだ

だそうです。

確かに昭和初期の55歳定年から
現在は65最低年も珍しくない状態になってきています。
実に労働寿命が10年延びているわけです。

それに対して教育も
昭和初期の尋常小学校卒から現代の大卒が珍しくない
という状況になってきていますね。
やはり10年延びている。

学びの動機はどうなのでしょう?
ここが気になるところ。

昔は
「俺は立派な侍になるのだから、そのために学ばなきゃイカン」
…江戸時代はさすがに古すぎるか(笑)

昭和初期ではどうだったのでしょう?
もっとマシな生活するために
(今よりもっとシリアス)
というとことろから
お国のために
といったところまででしょうか。
立派な人になって故郷に錦を飾るのだ!とか。
今と同様、幅はあるでしょうけど。

では、今は?
もっと良い暮らしというか
安定した生活をしたい
そんな希望が大半ではないでしょうか。
もちろん、細かいところを見れば
色んな人がいますけど。

いや、どうかな。
今も昔もあまり変わらないのかな?
でも、自分のことばかり考えるのが
より恥ずかしげもなくできる・言える
そんな風に変わってきている気がしなくもない。

何が言いたいかというと
多くの人が自分のことばかり考えている
つまり私利私欲が当たり前になっているのでは?
ということが気になるのです。

もちろん、自分の生活
つまり生きるために仕事をしても悪いことはないのですが
自分のことばかり考える
それが行きすぎると
結局誰もハッピーにならないですよね
ということが言いたいのです。

別に最近の若者達が特別ダメだってことではないです。

私の子どもの頃だって
「公務員になりたい!」
ってのがいて
「なんで?」
って聞いたら
「だって安定してるし、退職金が良いから!」
って答えてましたよ。小学生のくせに。
公共のための仕事するのに
自分が美味しい思いしたいことが動機なんですよ。
ま、子供じゃしょうがないのかな。

私はそんな話しを聞いて
「へー、電車の運転手の方が格好良いのになぁ。
コイツ、つまんねーこと言うなぁ」
なんて思ってましたけど。

当時、公務員になりたいって言っていたのは
総じて勉強ができるコでした。
「総じて」ということは
そういうのが結構いたってことです。
なので私には
「勉強ができることと公務員は
カッコ悪くてつまらないことだ」
という変な刷り込みがされている気がします。
超偏見です。

でも、つまらないことばかり言う
勉強ができる連中の中に
「僕はカラヤンみたいなオーケストラの指揮者になる!」
ってコがいて
「コイツ格好いいな!…よくわかんねーけど」
ってのもありましたね。
彼の夢は叶ったのかな。叶ってるといいな。

別にね、学ぶ時間が長期化しても
それに対してどうこう言いたいわけではないのです。

労働寿命が延びようが
それは時代の流れなんだろうし、しょうがない。

でも、もっと夢見て楽しくやったらいいじゃないか
もっとみんなをハッピーにしてあげたらいいじゃないか
と思うんですよ。

大学に来ているなら
もっと崇高な理想を持っていても良いし
崇高じゃなくても
デッカイ夢があって良いと思うのです。

そうしたら
もっと主体性を持ってクリエイティブに学べると思うし
彼らをサポートする我々だって
もっと楽しく仕事できると思います。

こういうのに対して
文句を言って無い物ねだりをしても
不健全で建設的ではありません。

ちょっとずつでも良いので
何とか変えていきたいものですね。

でも、時代は巡るわけなので
そのうち、そんな時代が来るはずです。
それは意外と早いかもしれません。
準備しておきましょう。

技術は人なり

「思い」の話

何か成果が欲しいと思ったら
もちろん行動が必要です。

そのためには「思い」が必要です。

なぜなら
全ての行動は
思いから発しているからです。

「思い」といっても
意識と無意識
(顕在意識と潜在意識)
があったりして
その辺の細かいところは他に譲るとして
基本的には
日頃自分が何をどう思っているのか
その辺が大事なところでしょう。

それによって
取る行動の内容や
大きさなどが決まります。

なので
ショボいことや
ネガティブなこと
そんなことばかり思っているのであれば
相応の行動を取るわけで
相応の結果を得ることになります。
当たり前です。

なので
高望みだろうが
きれい事だろうが
ポジティブで
皆が喜んでくれそうなことを思っていれば
それによる行動が起きて
相応の結果を得ます。

ただ、色々と思う時点で
雑念みたいなものが混入してしまうこともあります。

失敗への恐れとか
私利私欲とか
妬みとか

そういうものが思いを弱くしてしまいます。

この「思い」は、自身が自由にできることの一つ
のような気がするのですが
意外と自由にならないものでもあります。

どういうことかというと
「思うな!」と思っても、思ってしまうから。
例えば

あなたの目の前に
好きな飲み物があると
想像しないで下さい!

と言っても、想像してしまうでしょう?

過去のあなたの失敗を
想像しないで下さい!

と言っても、ついつい探してしまいませんか?

なので
崇高な思いを持ちたくても
日頃の考え方が邪魔してしまうのですよ。

何とかしたければ
自分の意識を改造するしかありません。
もちろんそれは日頃意識していないのですから
無意識(潜在意識)ですね。

日頃からの努力とか工夫とか習慣化で何とかする
そんな方法もあると思います。

セラピーとかカウンセリングとか
技術的に何とかする方法もあって
そういうもののお世話になるのも良いと思います。
(お前は病気だ!と言う意味ではありません。
腕の良いカウンセラーは凄いですよ)

いずれにせよ、何かしらの工夫とか刺激が必要でしょうね。

その行動の根源にあるのは

今のままの自分じゃ嫌だな
自分の理想に対しては不十分だな
と認めることです。

だって、それを認めない限りは
何も変える必要がないのですから。

何に対して不十分?

それはもちろん理想ですよね。
ビジョンです。
夢と言っても良いかもしれません。

そういうものを持てなくて困ってる?

いやいや、実はあるんじゃないのかな?
口に出せないだけで。

何で口に出せないのか?

話はループしますが
何か恐れとか
雑念が入っているのではないでしょうか?

ひょっとしたら、たくましい想像力を
残念な方向に使っているのかもしれません。

その辺を深掘りして解決するのは
カウンセラーの役目かもしれませんね。

夢見る頑張り屋さんは
そんなことを考えて時間を使うのはもったいないので
思いを形にするために
まず行動ですよ!

技術は人なり