人生は思った通り

人の生き方なんてのは、20歳前後の時期に何をどのように考え、どのようにやるかで、だいたい決まる

まだ人生終わってませんが、経験上そう感じますし、学生達、卒業生達を見ていてもそう思います。

もちろん、イレギュラーは起こるものだし、環境の影響なんかもあるので、100%望み通りとはいかないかもしれないけど、かなり良い線いくはずです。

強く望むものがあって
そのために必要なことを考え、実行したら
それに応じた結果が出るのは当然のことです。

なので、たまに聞く
「人生は望み通りになる」
というのは一理あります。

「どうせうまくいかないよ」
はい、その思いも実現します。

「どうせうまくいかない」と信じていれば、それは実現しやすいはず。

では
「きっとうまくいく」
と信じていればうまくいくのかって?
いきますよ。
少なくとも
「どうせうまくいかない」
と思っているより、ずっとうまくいきます。

「高望みしなければ傷は浅い」
そうですね。その通りです。
望んだ「低い目標」と「浅い傷」が手に入ります。
高い目標よりも傷付かないことを望んでいるわけで、それは実現しやすい。

では、「高望みして失敗したらどうするんだ?」って?
チャレンジしたら失敗するのは当然でしょう。
失敗しないことをやるなら、それはチャレンジでは無いし、そんなものには価値がありません。

「希望はあるけど、そのためにどうしたら良いか分からない」
それは経験者に聞きましょう。

ネットで調べたり、経験の無い人に聞いたりするのは時間の無駄です。
経験者を探す労力を惜しんだり、ビビったりしているのであれば諦めましょう。

どうせ望みを叶えるためには労力や勇気が必要になりますから、それを躊躇するのなら相応の結果が手に入るだけです。

何か偉そうなことを言っているようですが、これはレベルが高いとか低いとか、そういうことではなく、「どのような考え方をしているのか」という話しであって、プライオリティは何なのか、という話です。

そういった「考え方」は自分で決めるものですが、大抵は20歳前後で基礎ができちゃうので、その時期であれば、自分の望む人生の大まかな下書きが作れるはず
というのが今回言いたかったことです。

自己肯定感 こういうことか?

自己肯定感について、イチローさんは気持ち悪いと言います。
方や、「自己肯定感は大事だ」と言う人もいます。

どちらも正解かもしれません。
と言うのも、自己肯定感の「肯定」って、「何に対して?」という比較の結果だからです。

なので、比較の対象が何かによって、その意味合いが大分変わってくるでしょうね
というのが今日のお話しです。

何の比較対象も持たず、現状を肯定しちゃうってのは、確かに気持ち悪い感じがします。

比較対象が他人であった場合、その相手や、比較する内容によって結果は大分変わってくるわけですが、現状の自分のポジションに対して不安に思っている場合は、自分以上のパフォーマンスを持つ相手と比べます。
だって、その格差が不安の原因だから。

さらに、何を物差しにして評価するのかというのも問題で、すでに相手が持っている物差しで評価するのは良くある話。

これ、どういうことかというと、他人の持っている優位性とか特徴的なパフォーマンスなんてのは、当然目立つわけですが、大抵の場合、それはその当人が得意としていることです。

その目立つことに注目した後に
「あれ?自分はどうなんだろう?」
となって、比較が始まるわけですが、すでに他人が優位性を持っているフィールドで勝負しようってことになると、やる前から不利なのは当たり前であって、そんな自分を肯定できるレベルにしようなんてのは難しいでしょう。

そして、レベルの高い人なんて世の中を見ればいくらでもいるわけで、どんなに頑張ったところで相対的に自分が低い位置にいることになるでしょう。

とまぁ、そんなこともありますけど、こんなこともあります。

比較対象が、自分が設定した内的な目標だった場合、理想が高くて同時にモチベーションが高い人だと
「まだまだ満足いかん!」
と言った状態が続くでしょう。

そんな人からすると、そういう状態を肯定できちゃうって
「気持ち悪い」
となるでしょうね。

あと、モチベーションが維持できていない状態で、高いレベルの他人とか、高い内的な目標と比較しちゃうと、どうにもこうにもならない苦しい状態になるかもしれません。

そんな時は、昨日の自分と比べるといいのですよ。
そして意識して、一歩いっぽやっていれば、昨日の自分は上回れるでしょう。

それを毎日繰り返していたら、そうれはもう大したものになりますから。

そういうやり方であれば
継続できている現状を肯定しながら、まだまだ成長できる自分の到達点に対しては満足できていない
といった状態が続けられるかもしれません。

さて、あなたはどんな風にやってみますか?

プライオリティについて考える

優先順位のことです。

「これが一番重要だよ」と誰かに言われても
結局は、自分がどう思っているかが行動を決めます。

「勉強が大事だよ」
と言われても、自分が本当に大事だと思っていなければやりません。
でしょう?

自分にとって、本当に大事なものは何なのか?
それに対して真剣に向き合う経験がありましたか?

あったなら、あなたは幸運です。

「これが大事なのだ」
と他人から入力される機会が多かった気がしませんか?

まぁ、我が国は法治国家なので、社会を回すためにルールは大事です。
「これは大事なので守りなさい」と。
法治国家じゃなくても大事でしょうけどね。

ルールの他にも、集団として大事なことはあるでしょう。
文化とか伝統とか、その他諸々。

そんな風に、外部から入ってくる大事なことは、それこそ山ほどあるわけですが
その上で、パーソナルな、プライベートな大事なものは何でしょう?

我々は、「それ」のために生きているようなものではないでしょうか。
「それ」を意識していたり、していなかったりはするでしょうけど。

「それ」が曖昧になっていたら…というか、意識を向けていなければ
「楽をするために」とかいうことになっていても
それはそれで自然なことなのかもしれません。

さて
で、学生が「一番重要なのは学力だよ」となっていたりすると
これは一見、健全で当たり前のことのような気がしますが
実はちょっと変。

本心からそう思って、その筋で突き詰めるのもアリかとは思います。
問題が解けるのが楽しいとか。
でも、そんな風にずっとやっていけるのはごくわずか。

だってそもそも、勉強だの学力だのというのは何かをするために必要なものです。
その「何か」が一番重要なのは当然でしょう。
そのために必要だと思えば、勉強だって何だって一所懸命やるでしょう。

何のためかも無いのに
勉強ができれば将来の選択肢が云々
なんてのは、モチベーションの源泉にはならんでしょう。大抵は。

本当に、どうしてもやりたいことがあるなら
そのために必要なことは手に入れたいと思うでしょう。

でも、何のためか分からない手段である学力を
とにかく手に入れておきなさい
ってのは、無理があるでしょう。

そんなことやってもハッピーにならないだろう
ってのは、皆が薄々気付いてきているのではないかな。

というわけで、自分にとって一番重要なものは何か?
ということについて考えてみるのは大事ですよ。

というお話しだったわけですが、その辺を整理するためにも、空白の時間みたいなものは結構重要なわけで、そういうことに使える時間を、ネットやら何やらで浪費してしまっている日常を見なおす必要はあるよなぁ、それこそ重要なことだよなぁ、なんて思う今日この頃です。