FSAEオーストラリア大会 準備2日目

今日からはマシンの整備開始です。

今回も今まで通り、我々のサポーターでもあるホンダ・オーストラリアにお世話になっています。
ここはオーストラリアにおけるホンダの拠点です。

使わせて頂いているワークショップには、バイクのトレーニングコースも併設されており、整備完了後にはすぐに動作確認ができる素晴らしい環境が整っています。

こんな箱に入って輸送されます
木箱を開けて準備開始
ワークショップはかなり立派で素晴らしい環境です

本来であれば、現地でマシンと装備一式を梱包した木箱を開梱したら、すぐに走り出せるように準備すべきなのですが、今回は準備が不十分で、とてもそのような状態にはできませんでした。

よって、現地では組み立て作業をはじめ、色々とやることが残っています。

巨大なホームセンターBUNNINGSやらバイク屋さんやらで今日も色々と買出し

今日は一日は整備に充てて、明日はテスト走行の予定です。

ところで、オーストラリアの物価上昇と、日本円の下落が相まって、何を買うにも日本の2倍以上といった感じです。

そんな環境でも、食事関係全般の責任者「食糧番長」を務める新卒研生の伊藤君のおかげで、食事代は1食当たり5豪ドル以下に抑えられている模様。

作業完了後はスーパーで食材の12い出し
右が食糧番長の伊藤君

ちなみに今日の気温は20度前後とちょっと肌寒かったのですが、おかげでハエはほとんどいませんでした。
予報では、明日は30度を超えてくる模様。

分かっているようで分かってない

また今回も誤解を招きそうなネタですが、行ってみましょう。

学校って、勉強させるでしょう?
まず勉強ありきですよね。

それは良いんですよ。
基本的な、誰でも知っているべきことであれば。

でも、そこから自分の志向する分野へ枝分かれしていきますよね。
だって、人はそれぞれ特性や為すべきことが違うんだから。
自分が好きなことをやればいいんですよ。

そんな風になるのを専門化と言うのでしょうけど、それは、自分が望む分野の仕事をするためです。

もう一回言います。

自分が「望む」分野の仕事を「する(やる)」ためです。
それが理想です。

学校では色々やっているようですが、授業に関して言えば、「やる」じゃなくて「やらされる」経験ばかりです。

何でこうなっちゃうかというと、お上から「こうせい」というお達しがあったりするのでしょうけど、教員が、「教育とはやらせることだ」という概念を持っているからでしょう。

正直なところ、私も当初はそう思っていました。
いかに「教えるか」。
平たく言えば、「言ったことを覚えさせる」みたいなことです。
当然、「言って」「やらせる」ということになります。

その前提としては、「コイツら分かってねぇんだから、言って聞かせないといけないのだ」「そうしなければ何もできないのだ」という固定概念があります。
さらに言うなら「どうせ自分から学ぶなんてことはできないのだ」とも思っています。

そんな調子で、基礎から専門分野の応用まで、ずーっとやります。
ではないですね。
ずーっと「やらされ」ます。

中には、そういうのが好きだったり、うまくいっちゃったりして、「やらされる」から脱する者もいます。
しかし多くはそうではない。
多くは、やらされるのにウンザリして、うまくいかなかったりします。

でも、「これができないと…になっちゃうぞ」みたいに脅されて、それが動機となって、仕方なく勉強をします。

「仕方なく」なんて言い過ぎだって?
いやいや、だって授業が休講になると喜ぶじゃないですか。
私もそうでしたよ。
お金払ってるのにね。

学校では
「やる」ということはイコール、「やらされる」ということである
という奴隷的なマインドを強化しています。
乱暴な表現ですけど、そんなことになっていると思います。

この価値観が固まると
「仕事とは、言われたことをやらされることだ」
ということになるでしょうね。
そうしたら「社畜になんかなりたくねぇ」となるのも分かる気がします。

長くなりましたが、今回何が言いたかったかというと、そもそも学校でやるべきことは、やりたくもないことをやらせることではなく、「やりたい」という気持ちを高めて、その状態で自主的に知ったりやったりしていくべきだと思うのです。

かつての夢工房の学生達は、勉強ができない者も多かったのですが、色々とものを作ったりしていく過程で、何がなんでも良いものを作りたくなって、自然と、もっと良いものを作るには知識や経験が必要だ!ということになって、結果的に凄いことをやっていました。

それは、「これができないと…になっちゃうぞ」という恐怖が原動力になっている場合の成長とは比較になりません。

私は、その光景を目撃して考えを改めたというか、目が開きました。
「コイツら、好きなことを全力でやらせたら凄いんじゃん!」って。

でも多分、多くの先生方には理解できないことだと思います。
だって、強烈な動機に突き動かされて何かをやったと言うより、そういう経験無しで勉強ができたからこそ先生をやっている人がほとんどでしょうから。
これ、先生に限らず、お上の皆様も同様なのでしょうね。
なので、「このままじゃもうお終いだ!」という状態にならない限り、基本的なシステムは変わらないでしょう。

でも、諦めるわけにはいかないのです。
変わるのを待っている場合ではありませんので、やるべきことをやります。
チャレンジのための夢工房ですから。

私のような大したことがない人間が偉そうなことを言いましたが、これは単に経験の違いによって見えるものが違うというだけの話です。
逆に私には、お勉強ができる人達が見ている景色は見えませんから。

できない理由は、できる理由に変換できる

夢を持ったり、未来に対して希望を持つのは良いことだし、とても大事なこと。

もちろん、自分がそれを「やる」のであれば。

「できると思っているけど、やらない」
なんてことがあったり
「やりたいことをやらない」
なんてこともあったりします。
言ってる自分も耳が痛いですが。

それらは「できない」と言います。

「あとでやる」は、「やらない」と同じです。
「あとでやる」と思ったことは、大抵はやらないし、時間が経ってからやっても価値は半減しています。
それに、そう思った「今」は「やらない」ことを決断しているのだから。

こんなこともあります。
「あとで」「やる」は
自分は、やらなければならないと思っているけど、やらない状態だったりもします。
つまり、やらなければと思っている自分自身に対して裏切っている状態です。
これ、想像以上に自分に対するダメージがあります。
痛みは感じなくて、むしろ気持ちよかったりします。やらないので、肉体的には楽なのです。
でも繰り返すと、やりたいことがどんどんできなくなっていって、やりたいことをやらないのが普通の状態になります。

「やらない」は「できない」と同じ。
やらないことができるはずはないから。

大事なことは…多くの場合、これらの「できない」のほとんどは自分で決めた結果だということです。
習慣化されていて意識されていないと思いますが。

それでもいいや
というなら、特に言うことはないのですが
そんなのイヤだ
というなら変えてみましょう。
方法はあります。

小さなことでも良いので、自分がやるべきだと思ったことをすぐやる
そんなトレーニングをしましょう。

これが「できる」に繋がっていきます。
小さなことで良いのです。

多くの場合、小さなことをバカにしてやらないのです。
でも、小さいことと大きなことの境目はどこにあるのでしょうか?
多分、無いです。

小さなことは、身の回りに沢山あるはずです。
なので、やろうと思ったら沢山試せます。
沢山やったら習慣になるので、小さなことでなくてもできるようになるでしょう。

いまくいくようにやりたいという気持ちは理解できるし、それが動機であるべきですが、そのためにはすぐにやることです。ダメでもいいから。

そう、ダメでもいいんですよ。最初は。
一番ダメなのはやらないことなのです。それが本当の失敗です。
ちょっとやってみてダメでも、諦めなければ何とかなるもんです。

それに、どんな結果が出ようと、最低でも「やろうと思って、やった」という経験が残ります。

「あとでやる」が習慣化してしまう理由は、やらされる経験が多くて、そもそもやりたくないとか、やらされるとやるの区別が付かなくなっているとか、そもそも自発的に行動した経験が少なすぎるとか、失敗が怖いとか、それはもう色々理由があるのかもしれませんが、そんなのはどうでも良いことです。

すぐやるようにして、継続する
これができるだけでも、そこそこの結果は出せますよ。
というか、それが成功の秘訣だと思っているのですが、どうでしょうか。

「偉そうなこと言って、お前成功してんのか?」
と言われると困っちゃいますが、経験上うまくいったことって、大抵はそんなアプローチでやってましたから、あながち外れてはいないと思います。
というか、そんなの常識といったレベルかもしれませんが。