クルマにまつわる仕事の話

別に硬いネタではありません。

昔、仕事でレーシングカーの設計をしていたことがあります。
ごく小さなプロジェクトでしたが。

で、ブレーキまわりの設計をしているときに
「このテの部品は量産品を流用したいなぁ」
と思ったのですが
何か良い部品無いかな?と思って
大手のブレーキのメーカーに電話したのです。
「なんか良い部品無いですか?」って。

その時イメージしていたのは
イタリアの某有名ブレーキパーツメーカーのように
単品でエンドユーザーに販売できるような部品が無いかな?
ということでした。

結果…日本には無かった。

なぜかというと
日本製のブレーキ部品は
自動車メーカーからのオーダーによって
車種専用に開発するから
「これは良いブレーキ部品ですよ」
ってお客さんに直接売るような形態になってないのです。
カタログ化されてなかったのですね。

日本の場合は、ブレーキに限らず
他社間での部品の流用はあまり無い気がします。
全く無いわけではありませんが。

欧米では
自動車やオートバイを構成するコンポーネントを開発して
自動車メーカーへはもちろん
エンドユーザーにも供給できるメーカーが結構あります。

ブレーキ部品とかショックアブソーバーとかシートとか
それこそ、部品に限らず外観のデザインを専門にやる会社とかもあるし。

今でこそ、日本にもそういう部品メーカーがボチボチありますが
昔はあまりありませんでした。

なんでそういうビジネスの形態の違いができたかというと
自動車の成り立ちからの歴史を持っているか否か
の違いが大きいのではないかと思います。

そもそもの自動車はどんな物だったかというと
やはり車輪が着いていて走るものですから
馬車の技術が用いられていたわけです。

車輪なんかは木でできていて
その外側に鉄の輪っかをはめた物です。

それを木でできたフレーム(車台)に取り付ければ
荷車の形になります。

それぞれの要素は結構異なる作り方だったりするので
それぞれの要素を作る専門の職人がいたり組織があったでしょうね。
車台やさんとか車輪やさんとか。

ちなみに
私の母方の先祖は
城下町の興行師から
大八車(荷車)の車輪職人に職替えしたそうです。
どうでも良い話ですが。

そして、荷車のままではカッコ悪くて
貴族やお姫様には相応しくないので
いわゆる上物(うわもの)を載せるのです。

カッコイイ箱状のボディです。
ついでに御者のシートとか各種の飾りとか。

そうしてできた四輪のカッコイイ馬車を
coach(コーチ)
といいます。

なので、そんなふうに馬車をカッコよく仕立てる職業を
coach builder(コーチ・ビルダー)
と呼びます。
イタリア語では
carrozzeria(カロッツエリア)
です。

もちろんヨーロッパにおいて
カッコイイ自動車を作り始めたのも彼らであって
当初はお客さんの注文に応じて
馬車にカッコイイボディを載せる仕事でしたが

自動車誕生後は
メーカーが作った車体(むしろ車台か)に
特注のボディを載せる仕事になっていくわけです。

現在もそういう会社は残っています。
デザインスタジオとしても有名な
ベルトーネとかピニンファリーナとかイタルデザインなどです。

かの有名なフェラーリも
当初はカロッツエリアとしてのスタートだったのではないかな。

ずいぶん長い前置きになってしまいましたが
そういうスタイルで仕事をすると
カロッツエリアが適切な各要素部品なんかを専門の会社にオーダーして
それらを車体に組み込むことになります。

なので、ブレーキとかショックアブソーバーとかシートとか
専門の会社が腕を競って部品を開発して
カタログ化された自社製品を
売り込むというような構造になるのでしょうね。

日本の場合は特注の自動車と言えば
貨物とか作業用の自動車だったりするので
トラックメーカーから出荷された車体に
箱状の荷室とか各種装置を取り付けたりする
専門の会社があります。
そういう作業を
「架装(かそう)」
といいます。

トラックをよーく見ると
「ナントカボデー」
とかステッカーが貼ってあったりしますが
アレがその会社、架装メーカーです。

今回のお話しの本体はここまでなのですが
書く途中で色々調べて
そこで分かった衝撃的な話があります。
事の次第はこうです。

car(カー)と言う言葉の語源は何だろう?
と調べたら、ラテン語のcarrusからきているということがわかりました。

エレベーターの人が乗る「箱」もcarなのね。

で、豪華な馬車はcarriage(キャリッジ)でいいのだったかな?
とか調べると
四輪の馬車を初めて作ったのはイギリスで
1820年代初頭…意外と新しいな。
それまでは二輪だったわけか。
ほうほう。

あれ?シンデレラのカボチャの馬車はどんなんだっけな?
おお、四輪の馬車だ!
時代考証はどうなってんのかな?
グリム童話は1812年~1815年なのでちょっと怪しい。
四輪の馬車は存在して…
あら、オリジナルにはカボチャの馬車は登場しない?
しかも内容がグロい。

姉たちは王子の持つ靴にサイズを合わせるために
つま先やかかとをナイフで切って…
挙げ句、鳩に目をくりぬかれて
足を切り落とされて…
うーん、読みたくない。

驚きはそれに留まらず
なんと
「おしん」ってシンデレラの翻訳版??
しかも漢字で書くと「お辛」
そんなひどい名前アリなのか?

興味のある方はWikipediaを見て下さい。

ハテナを付けよう

大した経験も無い学生が
色々できるようになる過程を見ていると
気付くことがあります。

大学に入ったばかりの学生は
まるっきり消費者のマインドです。
当たり前ですが。

目にしたもの
感じた事は
その場で完結します。

「美味しいな」
「カッコいいな」
「楽しいな」

そんなふうに心が動いたら
それでおしまい。

消費者にはハテナは要りません。
受け止めて消費するのが役割だから
それで良いのです。

でも、そこから先に行くには
つまり
自分が作って供給する側に回るためには
ハテナ
が必要です。

「凄いな」

と思ったら

「何が?」
「なぜ?」

それが

「どうしたらいいのだろう?」

「やってみよう!」

に繋がるといいですね。

こんなプロセスを回せるのなら
自分で学べるし、色々できるようになります。

その過程で
感じた事、思ったことをアウトプットして
それをチームで磨いていけたらいいですね。

念のため言っておきますが
ただ感じるだけ
思っているだけ
知っているだけ
では、何も起きませんし
それが良いか悪いかすら分かりません。

でも、いつかそのうち…?

そんな時は来ません。

今ですよ。

ちっちゃいこととでっかいこと

レーシングカーをつくるとして
まずは、どんなクルマにしたいのか
というところからスタートするわけですが
いざやるとなると
どうにも小さいところから見ていくという
そんな癖が付いていたりすることが多いのです。

これは個人の志向なのでしょうけど
環境による影響で
そんなアプローチの仕方が癖になっちゃってるわけです。

それについては
考え方が逆シリーズで何度もネタにしているのですが
今回は、そういうアプローチではうまくいかないどころか
モチベーションが低下しちゃうよね
というお話しです。

まぁ、全然難しい話でも何でもないのですが
細かい小さいところからスタートしたり
小さい領域ばかりやっていたりすると
やる気が起きないのです。

何ででしょう?

それは、全体が見えなくて面白くないからです。
そんな面白くないことは一所懸命できないのです。

学校の授業も同じじゃないですか?

ナントカの公式とか定理とか
歴史の年号とか
そういうのが何の役に立つのか
ビジョンが見えないのです。

そういうのを一所懸命やって
できるようになれ!
なんて、無茶な話だと思うのですよ。

むしろそういうアプローチで
できちゃってる人は凄いですね。
理由がなくてもできちゃう人。

というか、アレか。
そういうやり方でできちゃってる人が
先生になっているケースが多いのかな?


「何でお前らできないんだ!?」
ということ?

いやいや、何でもなにも
そりゃあなたが特殊なんですよ。
という話じゃないですか?

自分が関わっている部分とか部品とか
それを形にするタスクに対してベストを尽くせるのは
最終形態のマシンがどうなるか
というビジョンがあってこそなのです。

学校のお勉強だって
それが何の役に立つのか?
最終的にどうなるのか?
そういうビジョンが自分の価値観と合致すれば
学生達は教員がビックリするような成果を挙げます。
これは何度も目撃しているので間違いない。

でも、よーく思い起こしてみると
そういう学生を評価してくれる先生って
もの凄く少なかったなぁ。

自分の価値観と相容れないのだから当然か。

私はそういうの大好きなんですけどね。
面白そうだしカッコイイもんね。

というわけで
遠慮なく、でっかいところを考えてていきましょう。
そうすれば、ちっちゃいところもうまくいきますよ。

まずは小さいことからコツコツ…
なんてのは、大抵うまくいかないのです。

かといって
でっかいことが、いきなりうまくいくわけも無い。

なので、こうしましょう。

  • まずはデッカイ夢を見てやってみる
  • 大抵うまくいかないし
    行き詰まったり迷走したりする
  • 何が足りないか考える
  • 分かった小さいことをやる

どうでしょう。