持続可能性に必要なのは謙虚さではないかな?

誰も見ていないからやっても良い
誰にも迷惑を掛けていないからやっても良い

そんなことをやっていると
昔々は

「お天道様が見ているよ」

と言われたそうです。

「誰も見ていないと思っていても
神様はお見通しだ」
ということですね。

だからちゃんとしなさいよ
と。

私なんかも子供の頃は
そんなことを言われた気がします。

具体的な信仰心を持っているかとか
そういうことではなく
自分には計り知れない
大きな存在があって
それに対する畏怖と
謙虚さを持っていた
ということでしょうね。

それが道徳心の根源に
繋がっていたのでしょう。

謙虚さを持つということは
対象を受け入れている
ということでもあるので
そこから学ぶことができたりもします。

でも反対に
謙虚さを失うと
対象を拒絶するのは容易です。
そういう状態で
対象から学ぶことはできません。
だって拒絶しちゃってるから。

日本人の場合は
生活に神道の価値観が
少なからず根付いていたりするので
色々なものの中に「神様」を見ます。

それは自然だったり
あるいは物体だったり

八百万の神って言いますものね。

なので
色んなものに謙虚さを示すことができる
のではないかなと思ったりしています。

これは全く逆のケースを考えると分かりやすいですよ。

信仰心ゼロだと
恐らく目に見えるものが全てで
自己の利益が判断の全てになるでしょう。
もちろん対象に対して
謙虚な気持ちを持つ必要はありません。

これが唯物主義の消費文化になっちゃったりすると
大変なことになりますね。

バンバン開発して、買って、使って、捨てて…
となってしまって
その路線で突っ走ったら…

そんなことを考えると
国土面積の70%が森林である我が国は
まだまだ捨てたもんじゃない気がします。

我々は
自然を徹底的に開発するとか
過激な自然保護で問答無用で守り抜くとか
そのどちらにも違和感を感じるわけです。
何か違うのではないか?と。

その理由は
文化の深いところにある価値観が
影響しているのではないかな。
きっとそうだ。

というわけで
自然環境のみならず
外界との繋がりに対しては
謙虚に、対象に配慮する
そんなふうにやっていけたら
持続可能な文化・生き方
ということになるのではないかと思うのです。