技術継承に思う

昔ながらの職人さんは
弟子に対して手取り足取り教えません。

ではどうしていたかというと
「見て盗め」
です。

これが昔ながらの技術継承です。

対して学校教育は
学ぶべき内容を具体的に示します。

だいぶ違いますね。

双方ともメリットもデメリットもあるとは思います。

でも実際に
「見て盗め」
で素晴らしい職人さんが生まれて
良い仕事を引き継いでいたのは事実です。

何でそんなことができたのでしょうか。
どう思いますか?

もちろんこれは厳しいやり方だと思います。
本当にその仕事をやる決意が無いと続かないでしょう。
なので、本当にやる気のある弟子しか残らないでしょう。

それはそれとして
興味深いのは
「見て盗め」
で何が起きているかです。

以前、昔ながらの日本の刃物は
「鍛接」という技法で
炭素分の多い固い鉄と
炭素分の少ない柔らかい鉄を接合している
という話を記事にしました。
実際に自分でやってみたということも。

この時に改めて思ったのです。

「知ってる」と「できる」は違うぞ
と。

鍛接の方法は、本を読んだりネットで調べたりすると分かります。

で、理屈で知っているとできるかというと
できないのですよ。

知っているけどできない。

刀匠にこの話をしたら
「難しいでしょう」
と笑ってました。

師匠が弟子に技術を継承する際も
似たようなことが起きるではないでしょうか。

言ってもできない
分かっていてもできない
そんなことが。

「見て盗め」では
弟子は必死に師匠を真似る
そのうちに
いわゆるコツを掴んで
できるようになるのでしょうけど

そこで何が起きているかというと
結果として製品の最終形態は似たようなものができているのだけど
実はプロセスに含まれる細かい手法なんかは
多少モディファイされている可能性があって
弟子本人がやりやすいやり方や工夫が含まれているかもしれない。

あえて言わない伝え方だからこそ
継承者による最適化が含まれていって
技術が磨かれて生き残るのではないかな
なんて思うのです。

そして
「知ってる」と「できる」の両方を掴んで
独立していく
と。

その後
知識のみを教えるやり方が発達したり
産業の発展と共に生産技術も発達して
効率の悪い昔ながらの技術継承は無くなってしまって
今のように「知ってる」と「できる」が分離されて
それぞれが専門化していったのでしょう。

でも、これが行きすぎると
「知る」に特化した「専門家」では
やったことがないから分からない世界があるわけで

知識のみに偏ったやり方があってもいいのだろうけど
そればかりになってしまうのは問題で
そういうジレンマにぶち当たっているのが今なのかな。

そもそも理屈というのは
実践から生まれるもので
理屈ありきではなかったりして

理屈で分かっていてもできないことはたくさんあります。

ただし、理屈を知っていれば
色々便利なことがあるわけで
それを活用しないと世代を重ねる上での進歩がなくて
いつになっても石器時代ですね。

何事も極端に走るのではなく
中庸が大事だということでしょうか。

迷ったときには

これから人生を構築していく若者にとって
経験者の持つセオリーは
一見もっともなのですが
実は何の保証も無いことです。
偉そうなことを語っているこのブログもしかりですが。

そういうのを鵜呑みにしたところで
誰も責任を取ってくれないわけですが
参考にはなるでしょう。

さて
皆さん、何か目標を持って日々頑張っていることかと思いますが
その結果、「どうなりたいか」とか「どうしたいか」とか
考えていることと思います。

短期的なものとか長期的なものとか
具体性があったり無かったりするでしょうけど。

明確な目標があれば
それに越したことはないかもしれませんが
無い場合もあるでしょう。

そんなときには二択で行きましょう。

  • 普通で良いのか
  • 普通じゃ嫌か

もちろん仕事の内容にもよるかもしれませんが
最初にこれを決めておけば
仕事をしていて次々に現れる課題に対して
どんな方向で対処すれば良いかが決められます。

  • 普通で良いなら、皆がやるように対処すればいいでしょう
  • 普通が嫌なら、勇気とか労力、手間が必要なやり方を取りましょう

これ、簡単なことで

  • 普通にやったら、最大限うまくいっても普通の結果しか出ない
  • 普通じゃないやり方でやったら、普通じゃない結果が出る

そういうことです。

当たり前なのですが
実は意外と意識されていないことだと思います。
どうですか?そんなことありませんか?

既存の価値観に乗っかって頑張ったところで
生じる優位性は無いわけで

普通じゃないやり方は大変かもしれませんが
当然ながら普通じゃない成果が得られます。

もちろん普通じゃないやり方をしていると
「本当にこれで良いのだろうか?」
と不安になることもあるでしょうし
うまくいかないこともあるし
時として、そのやり方ではどうしようもなくて
方向転換が必要なこともあるでしょう。

でも、その過程で得られることは意外と大きくて
後に必ず活かすことができます。
特にピンチに陥ったときに。

普通の選択肢を取り続けていると
いざイレギュラーなことが発生したり
特別なことをやろうと思ったときに
ネタが無くて、手も足も出ません。
これまた当然のことです。

キャリアデザインっておいしいの?

よく「キャリアデザイン」などと言うじゃないですか。
意識してキャリアを磨くことなどしたことがない自分としては

何だ、そりゃ?
そもそもそれは、自力でデザインできるものなのか?
一体何が欲しいのだろうか?

と思ってしまうのです。

恐らくキャリアデザインって
色んなスキルを手に入れることでしょう?
つまり、「道具を手に入れる」みたいなもので
「何のために?」
という視点が欠落している気がするのだけど
どうなのだろうか。

「資格持ってた方が将来有利だよね!」
のような資格ビジネスに乗っかっちゃってる人と同じように見えるのだけど。
いくら良い道具を持っていても
良いものができるわけではないですから。

でなければ
恐らくこの場合の「何のため」は
収入による自分の将来の安定とか、老後の心配とか
そういうことなんじゃないだろうかと思うのですが。

まぁ、そういうことを考えても良いとは思うのですが
とすると結局、利己的なゴールを定めちゃっている
ということになるのではなかろうか。
それはあまり面白くなさそうだし
それによって喜んでくれる人はいないだろうから
結局は価値の創造が最低限になっちゃったりするのではないだろうかと思うのです。
(便利な道具のような人にはなるかもしれないけど)

頑張ってキャリアを積み上げている人が
裕福でも偉くもなくい人間に
こんなこと言われたら腹が立つかもしれないけど
そんなふうに思います。

色々やってきて思うのは

「何のために」が明確化されていれば
手元の小さいことを目的化するのではなく
目的に向かう大きな流れに身を任せたり
時として流れを作ったりして
手元のもの(スキルとか)は
その流れに任せるてやるべき事をやっていれば必然的に手に入る
といった感じで良いのではないだろうか
と。
それが実践的なスキルってやつではなかろうか
と。

そんな流れの中から求められることに応じる
というのは、実はとても価値があることではないかと思います。
単に「言われたことをやる」ではないですから。

学校ではHow toを教えるところだから
「どうやって」(手段)に目が行きがちだけど
大事なのは「何のため」(目的)ですよ。

学歴とかキャリアとか
そういうのに拘るのも分かる気がしなくもないけど
目に見えるもの以外を伸ばすことが重要だと思うのです。
目に見えないものに拘るのは勇気が要るとは思いますが。

正直なところ
キャリアの構築を目指しているような人で
一緒に仕事したいなぁと思うような
魅力的な人がいないもので。