はじめての海外ツーリング 第1話 計画編

現在、コロナの影響で、バイクに乗りたくても我慢してる皆さんは
たくさんいるのではないでしょうか。
バイクに乗らなくても、色々我慢している人は多いことでしょう。

そんなみなさんの気晴らしや暇つぶしになればと思い
2019年末から翌年の年始にかけて、初めての海外ツーリングとしてオーストラリアを走ったときの記録を元に文章を起こしてみました。
今考えてみれば、コロナウイルスが蔓延する前に帰ってこられたのでラッキーでしたね。
これがきっかけになって、コロナ明けにドーンと行っちゃってくれると幸いです。

まずは計画編からいきましょう。
では、はじまりはじまり

以前、オーストラリアの開拓史について書いた本を読んだことがある。

オーストラリアに到着したイギリス人達にとって、この大きな陸地の内部は未知の世界であり、内海があるに違いないと思っていたそうだ。
しかし、内陸部の環境は過酷で、多くの探検家が失敗を繰り返して命を落とした。

そんな中、1862年にジョン・スチュアートがアデレードからダーウィンの縦断(つまり南から北への縦断)に成功したのみならず、往復をも成し遂げる。しかも1名の犠牲者も出さずに。
オーストラリア大陸を南北に貫くスチュアート・ハイウェイの名前は、そのジョン・スチュアートにちなんで名付けられた。

ちなみに、同国で行われている世界的に有名なソーラーカーレースは、このスチュアート・ハイウェイをダーウィンからアデレードへ南下して行われている。
そんな道で縦断ツーリングするなんて冒険ぽいじゃないか。

というわけで、数年前から、アデレードを発ちダーウィンに向かう縦断ルートの走破を考えていた。
ルートはもちろん、オーストラリア大陸の中央を南北に貫くスチュアート・ハイウェイ。
中間地点には、かの有名なエアーズ・ロックもある。
距離にして3,000km、一週間あれば走りきれると見積もった。
これなら盆休みや年末年始の休暇期間で行ける。

海外ツーリングが初めてなのに、大陸縦断だとか一週間で走りきるとか、大胆なのかセコイのか…そんなことは気にしない。
そもそも、ゆっくり旅ができるほどの休みが取れるのはいつになるのか分からないので、その時を待つわけにはいかない。
1週間で大陸縦断をするとなると、余計なことは一切できないかもしれないけど、それはそれでチャレンジ感があって良い。

2019年の夏に、「行くなら今しかない」と急に思い立ち、諸々の予約をした。時期は年末から年始にかけて。
つまり現地で年越し。

まずは、この縦断ルートを前提としてバイクのレンタルをネットで申し込むことにした。
バイクの貸し出しポイントは南のアデレード、返却ポイントは北のダーウィン。

一週間という時間制限付きで3,000kmを走るとなると、恐らくその内容はただ走るだけになる。
ビューポイントで観光しながらのんびり、というわけにはいかないだろう。
もちろんバイクの選定は重要。
時間に余裕があるならオフロードバイクでキャンプしながら、時にダートを走りながら…という選択もあるかもしれないが、今回は毎日確実に走行距離を稼ぐために長距離の高速巡航を繰り返せる機種にする必要がある。

なので、BMWの水平対向2気筒を積むRシリーズ一択とした。
これなら500~800km以上の走行を毎日繰り返せる。
本当は今乗っているR1200RSが良かったのだが、レンタルのラインナップに無かったので、より大柄なクルーザーであるR1200RTとした。

利用したのはここ BIKE ROUND OZ

オーストラリアのレンタルバイクは、日本から簡単にネット申し込みで予約ができる。
料金は、日本車とドイツ車では、あまり違いは無いと思う。
かの国では、全てのバイクが「外車」なのだ。
ただ、ハーレーはワンランク上の料金だった。
ハーレーは排気量も大きいし、ステータスも上なのだろう。

オプション装備は、タンクバッグ、トップケースと純正ナビを選んだ。
サイドバッグは標準装備だった。
ちなみに、スマホのナビでも都市部では何とかなるが、奥地に入ると携帯の電波は届かないこともあるだろう。
よって、GPSナビは必須と考えた。

ちなみに、R1200RTを一週間借りて、1,946豪ドルだった。
1豪ドルを80円で計算すると156,000円くらい。
これは対人対物保険込みの金額。
ただし、転倒などでバイクを壊すとその分の修理代は取られる。
これを軽減するオプションの保険も用意されている。

飛行機はマイルを使ったので無料だ。
往路は成田-上海-メルボルン-アデレード、復路はダーウィン-メルボルン-上海-成田というルートで予約。

道中の宿は、ポイントがたまっている予約サイト経由で予約ができる宿で繋いでいけば、うまく行けば宿泊費も無料だ。

つづく

幸福の根源は何でしょうね?

今日、大学内をてくてく歩いているときに思いました。
「何で日本は幸福度低いんだろ?」
「そもそも幸福って何なんだ?」

別に何か辛いことがあったわけではないですよ。
ご心配なく。
急に思っちゃったんです。
そういうことありませんか?

幸せって何だろうね?

ってこんなこと急に言い出したら気持ち悪いでしょうか。
気持ち悪いかもね(笑)

でも、何か解決策ないかな
と思っちゃいました。
で、こんなことを考えてました。

お金があったら幸せ?

そんなこと無いですよね。
だって、宝くじで「億」当てた人って
多くが人生破綻しちゃってるんでしょう?

同様に
何かいい物
欲しい物を手に入れる
ってのも違うな。

たぶん
何か「物質」を「もらう」ってことじゃないですね。

じゃ、逆はどうだ
「物質じゃないもの」を「あげる」
だ!

これ、当たってるかも!
いえね、最近改めて試してみたことがあるんですよ。
お店に行ったときに

挨拶して
ありがとうございます
って言うのを
改めてちゃんとやってみてるんです。

子供が元気よく言うように
バーン!!って言う訳じゃないけどね(笑)
いや、いずれそうやった方がいいのか?

飲食店ではずっと前からやってました。
相手が
日本人でも台湾人でもパキスタン人でもネパール人でも中国人でも。

それを
コンビニとかスーパーに行ったとき
もっとちゃんとやるように拡張しました。
前からもやってましたけど
それをもっとちゃんとやるようにしました。

するとね
やっぱり、お店の人嬉しそうなんですよね。
そりゃそうだよね。

ウチの工房の学生達と食事に行くと
奴らは帰りがけにお店の人に言います。
当たり前のように

「ごちそうさまでした!おいしかったです!」

やっぱりお店の人は嬉しそうですね。
そりゃそうでしょう。

で、お店の人はその後どうするでしょう。
きっと元気になって頑張ってくれると思うんですよ。

我々が次回行ったときにサービスしてくれることもあるけど
別にそれは期待してたわけじゃありません(笑)

元気になって頑張るお店の人にサービスを受けた
他のお客さんも喜べば…
おぉ、これは価値が循環しているってことだぞ!

この場合の価値は
相手の存在意義、存在価値です。

価値を認められたときって幸せですよね。

だとすると
そうか!
ひょっとすると
価値の根源は
幸福の根源は

ありがとう!か!
ありがとうって言うことか!

ってことに気付いてきました。

でも
こういうこと考えてる人
いっぱいいるんだと思います。
そんなこと当たり前だろう!
っていう人、いっぱいいるでしょうね。
そんなことないですか?
私は今頃気付いちゃいましたよ。

ところで
幸福感が高いと
誰かのためのことをやろうとするでしょう?

幸福感が低いと
誰かのためのことなんてやろうと思わないですよね。

じゃ、幸福感が高まるまで
人のためのことをやろうとしないの?
誰かが幸福感をくれるとか
そのうち幸福感に満ちあふれてくるとか
そうなるまで待ってるの?

それは待ってても来ませんよね。
やろうとしなければできるようにならない
けど
やろうと思ったらいつでもできる。

できるようになったらやろうなんて
思ったりするけど
そんなことはありえない!

面倒でもいいからやろうぜ!

ダメでもいいからやろうぜ!

だって、やらないとできるようにならないんだよ。
裏を返せば
やってれば、できるようになっちゃうんだよ。

とかね。

こういうの、ある程度歳いってから気付くんだな。
「あー、もっと早く気付いていれば
もうちょっとマシな人間になっていたかもしれん!」
とか思ったりもするけど
そんなことはあり得ない。
だって、気付くまで経験を積むプロセスが必要だったから。

なので、こういう話を若い世代に伝えているけど
100%伝わるとは思っていない。
そもそも彼ら
そういうことを本当に必要と思っていないかもしれないもんね。
せいぜい
「無くても困らないけど、あるとちょっぴり得する情報」
みたいな感じ?

でも、それでもいいんです。
話したことの1%でも伝わって
そのうちいつか、それを思い出したりして
で、試しにちょっとだけやってみたりして
それで彼らが
誰かをほんのちょっとだけでもハッピーにしてくれたら目的達成だ!

ほんとはみんながいっぱいやってくれると嬉しいんだけどね。

日本人の仕事に向き合う心

働き方改革って
労働時間短縮して効率上げよう
みたいな感じですかね。簡単に言うと。
他にも色々あるようだけど、その辺がメインでしょう。
日本人は長時間働き過ぎだと。
少子高齢化する今後を見据えて
グローバル化した世の中で競争力を上げましょう
ってことですよね。

「何で日本人ってそんなに残業するんだ?」
これね
前職でイギリス人とイタリア人のエンジニアと
仕事してるときに言われたんですよ。
オーストラリアの人にも言われたな。

その時
「ハッ」
としました。
理由、分からなかったんですよ(笑)

でも
別に残業が嫌だとは思っていない訳です。
車の開発やってる時って残業を命じられた記憶はない。
たまにはあったとは思うけど。
なので
「好きでやってるんだな」
と思いました。
まぁ、仕事は山ほどあって終わりがないんですが
どう進めるかは自分の裁量である程度決められたんですよ。
でも、やれるときはやれる限りやっていました。

まぁ、このへんは人によって様々だと思いますが。

キリスト教圏では
つまり欧米では
労働は神様から科された負荷という概念…で良いのかな。
だから基本的にやりたくないとか
だからこそ神に捧げる崇高な仕事をするとか
向き合い方は色々あると思うけど
基本的には労働時間短縮に対しては
大きな価値を感じているのではないかと想像しています。
ヨソの国の人と宗教に関する話をしたがらない人もいるけど
この点は、そのうち機会があったら誰かに聞いてみます。

日本では
神様ですら仕事をなさるわけですよね。
農作業とか機織りとか。
天皇陛下だって皇居でお田植えをなさるくらいなので
旧来から仕事とは尊いもので
忌み嫌う対象ではない。
なので、そもそも労働時間を短縮したいという意識は
あまり強くなかったのではないかと思っています。

仕事に対して
できればやりたくない
という層は古今東西を問わず
一定数いるわけですが
それはこの際置いておきましょう。

でも
働き方改革とか言って
まずルールを設定して
労働時間を短縮させて
効率を上げる
って順番おかしくないか?
って思うんですよ。

まず労働時間という枠を狭めた環境で
時間という重要なリソースを縮小した中で
知恵を絞れって事でしょう?

まず今の枠
もしくは枠を広げた状態で
選択して
集中する
ってのが筋なのではないかな。

とか思っているんですが
「政府に反対しようぜ!」
なんて言いたい訳ではありません。

自分たちの代表として選ばれた人たちが決めたことだから。
できれば信頼してお任せしたい。

何が言いたいのかというと
まず、仕事に向き合う「心」を何とかしようよ
ってことです。

仕事の効率が上がらないって
労働時間とかスキルとかの問題では無いでしょう。
そんなの結果に過ぎないから。

何かをやるって
まず意識
つまりその人の心があるんじゃないの?
で、各人の心が
何をやるか・やらないか
どうやるか
を決めているんでしょう?
だったら、その心の部分を変える
意識を変えるような取り組みが先ではないでしょうか。

そもそも
仕事に意味とか価値とか感じられなくて
面白くもないのであれば
「効率上げろ」とか言われても無理でしょう。

仕事が面白くなるように意識を変えない限り
行いは変わらないので
結果は変わらない。

ブラック企業とかもそうですよね。
労働時間が長いことがブラックなんじゃなくて
仕事に「心」が無いからブラックって呼ばれるんじゃないの?
利益ばかり見て
仲間とか部下のこと考えないとか。

もしくは
仕事の意味とか意義とかを見いだそうとせず
悪いとこばかりを見たり
単に労働時間だけにフォーカスしちゃうとか
そうしたらブラック企業に見えるかもしれません。

すっごく残業したって
そこに心があるなら
自ら進んでやりたくなってる仕事なら
やってる本人はブラックなんて思わないよね。

時間を短くしておいて
その状態で効率上げろ
って、そのアプローチこそがブラックっぽいですよね。

法律とかで縛りを設けておいて
「効率上げないと大変なことになるぞ」
みたいな事になったら
仕事している人の心は
まるで奴隷みたいじゃないですか。
そんな奴隷的な心で良い仕事しろ
効率上げろって無理ですよ。

労働時間が長いままで成果を大きくしろ
って言ったら
高度経済成長の時みたいに
馬車馬みたいに仕事をするようになっちゃう
とか思ってるのかな。

ならないでしょう!
時代背景が違うんだから。
というか
ならないようにする工夫することが大事なんじゃないかな。

規則で何とかするなんてのは
現場の工夫ではどうしようもない場合の最悪の時の対応でしょう。
…というようなことは
企業で働いた経験がある人ならみんな分かってるんじゃないかな。

「えーっと、規則ではどうなってたかな-」
で、行動を決めるより
「そんなの分かってるよ」
と自発的に動いた方が
より良いでしょ。
どう考えても。

規則で縛ると
大抵のものは最低限になっちゃったりしませんか?

当然だけど
規則で心を縛って良い仕事させようなんてのは無理なんだよなぁ。
なので結局
これって政府主導で何とかなる問題じゃないんじゃないかとも思います。

さらに言うなら

色んな人がいて
色んな考え方があっていいけど
おおらかさを許容できない方向に
社会が向かってるのではないかと思えてなりません。

おおらかさを失って
正確でなければいけない
明確でなければいけない

そうなりすぎてしまうと
考えの幅が狭まってしまって
事によっては考えなくなる。
みんなが考えて工夫する余地がなくなってしまう。

近年は
色々ありすぎて
みんな心がしぼんじゃってませんか?
だったら
それを何とかするのが最初ですよね。

まずルールで何とかしようなんてのは
人の心や力を信じてないやり方ではないでしょうか。

労働の効率とか生産性が重視されるのは分かるけど
もし
欧米の物差しで同じようなやり方をしなければならない
なんて思っているなら賛成できないな。

そんなヨソの価値観とかやり方に従ってやったら
やる前から負けるのは確定している。
我々の強みを活かさなければ競争力なんて得られるわけないでしょう。

いずれにしても
過去の歴史から強みを引っ張り出して再考して
日本人の仕事に向き合う心の再構築が必要なんじゃないかな。

と思う今日この頃。