怒らず 恐れず 悲しまず

そんなことが無く、朗らかに、活気に満ちた毎日が過ごせると良いですね。

以前から
ネガティブな感情を持って
日常を送るのは良くないことだ
というのは分かっていました。
誰でも分かってることだとは思うんですが。

テレビのニュースで流れる
悲しい出来事とか
腹立たしい出来事とか
もしくは
身の回りで起きる嫌なこと
そんなのに日々接して
心を乱されていたらハッピーにはなれないですよね。

よく
「世の中のことを知るためにニュースくらい見なきゃ」
とか言いますが、そんなこと無いですよ。
無理にネガティブな情報に接する必要はないと思います。

だって、それを知ってしまったら
嘆いたり恐れたり怒ったりするでしょう。
でも、自分では何もしませんよね。
せいぜい愚痴を言うくらい。
その愚痴は何かを良い方向に変えるのでしょうか。
恐れや怒りの感情はどうでしょうか。

恐らく何も良い方向には働かないどころか
本来やるべきことに使うリソースを消費していきます。
時間とかパワーとか。

なので逆効果です。
心は疲弊します。
ネガティブな情報を得て
変な満足感のようなものは得られるかもしれませんが
それらは役には立ちません。

もちろん必要な情報なら
それらを得るのは仕方ないと思います。
危機管理とかに情報が必要な場合はあるでしょう。
現在のコロナ禍とか。

かつては
周囲のネガティブな情報に
耐えたり
抑え込んだり
する必要があるのではないかと思っていたのです。
心を平滑化しちゃうような。

でもそれは難しいばかりじゃなく
人間らしくないし面白くないんですよね。

なのでまずは
ネガティブな情報源や環境に接近することをやめよう
次に
ハッピーなことが起きるように
自分から仕掛けていこう
と思うようになってきました。

気分が乗らないから
とか
何か良いことが起きないから
とか
受け身でやっているとロクなことは無いんですが
その状態がデフォルトになっちゃってるのが普通ではないでしょうか。
良いこと起きるかどうかは運任せ。
それ、運の使い方間違ってますが。

未来に良いことが起きるように
あらかじめ仕掛けておくには

話し方とか
表情とか
接触する情報とか
得た情報の使い方とか
接する相手とか

色々あります。
基本的には自分発です。

そういうのを工夫して実行するのは結構楽しいですよ。
確実にその成果は目に見えるようになって現れてきますから。
もちろん時間差はありますが。

これらは全然難しいことではないのですが
手強いのはこれまでの習慣ですよね。
ついつい今まで通りやってしまう。

一番難しいのは
自分が変化できるか
ってところだと思います。

「引き寄せの法則」
って聞くでしょう?
うさんくさいと思いますか?

あれ、当然のことですよ。
「運」を作るのは自分です。
待つものではない。

問題を突き抜けろ

問題の発見・解決とその能力は重要だとずいぶん前から言われてきました。

問題自体の捉え方にも色々あって
いわゆるネガティブな問題らしい問題を問題とするのが一般的ですが
これから取り組もうとする事柄自体を問題(課題)と捉える
という見方もありますね。

でも、ここでは前者の問題らしい問題を問題としましょうか。
ネガティブなヤツ
マイナスなヤツです。

誰もが何かしら問題を抱えているものだと思います。
一個も無いって人はそうそういないかもしれません。

日々、その問題に向き合って
四苦八苦してたり
どうしようかな~と悩んだり
してるのでしょうか。

問題は解決して当然とも言えますね。

でも
問題が存在する状態がマイナスだとすると
問題が解決された状態はゼロ

頑張って解決したところで
プラスではないですね。

何より問題なのは
問題に対峙したときの心のあり方です。

ネガティブな出来事を解決しなければならないという
心が萎縮してしまった状態で
最高のパフォーマンスは発揮できないでしょう。

なので
物事の明るい側を
狙えるトップエンドを見て
最高のパフォーマンスを発揮できるように頑張りましょうよ!

とか言うと

「お前、そんな偉そうなこという前に
やることがあんだろ!?」
とかいう台詞が聞こえてきそうですね。

そうそう
昔からよく言われましたよ。
で、嫌々ネガティブなものに
渋々対峙して

それを何度も繰り返すうちに
そういうロジックが癖になっちゃって
意識せずとも自然にそういう行動を取っちゃうようになりました。

それが正しいやり方だ
とか
その方が楽だ
とか
自分を騙したりしながら。

でもね
そんなロジックに従ったところで
大して良いこと起きないんですよ。

そんなのやって
夢が叶った!
とか聞いたこと無いですよ。

なので
そんなもん突き抜けてしまえ
って話ですよ。

安全・安心でいいのかい?

世に「安心・安全」というワードを
よく見るようになってしばらく経ちますね。
「当社は、安心・安全のために~」とかね。
いつ頃から言われ始めたのだろう?

安全というのは危険の無い状態で
それによって安心という気持ちが得られるのですから
本来はこの2つのワードを並べるべきではない気がしますが。
まぁ、揚げ足とりはやめましょう。

恐らくきっかけは
安心や安全に対して十分ではないと感じ始めたから
もしくは
安全であることが付加価値として前面に押し出せるようになってきたこと
そのあたりではないかと思います。

諸々の偽装問題や震災の時の原発事故などがあったり
自動車の衝突安全などの装備の付加などが前面に押し出されてきたり
環境問題なんかもあるでしょうね。

さらに深掘りしても面白いかもしれませんが
ここで言いたいのはタイトルの通りです。

もちろん生活する上で安全・安心は重要です。

もちろん業種や製品によっては
シンプルに
安心を提供する
ということに特化している場合もあるでしょう。

製品開発においては
安心を得られるレベルというのは当然のことで
その先にある付加価値をいかに高めていくか
ということろが勝負でしょう。

「安心」を辞書で引いてみると

心が安らかに落ち着いていること。
不安や心配がないこと。

とあります。

今回は何が言いたいかというと…

学校で、安全だの安心だのをゴールにしてしまうと
面白くないんだよね
ということが言いたいのです。
ワクワクしないんですよ。
やる気が出ない。

もちろん
組織として学生に安心を提供するのは重要なことです。
これを否定する気は毛頭ありません。

ここで言いたいのは
果たして安心を得ることが学生にとってのゴールとなってしまって良いのか?
ということです。

安心をゴールにして
それを得るために努力した場合
うまくいくと安心が得られるわけですよね。
ということは
うまくいかないと安心すら得られないということででしょう?

もちろん安心を求める学生がいても良いと思います。
でも
ワクワクすることをやってくれる学生もいてくれないとつまらないんです。

それに
学生自身にとっても大事だと思うんです。

仮に
「ボクはマトモなところに就職できれば満足(安心)なんです」
とかやられちゃうと
就職がゴールになってしまうわけでしょう?

安心が欲しければ
そのために必要な最低限のことをやるんでしょうけど
仮にそれがうまくいかなかったら
就職すらできないわけでしょう?

ゴールは就職じゃなくその先にあるんじゃないの?
自分が満足すればおしまい?
お客さんは満足させてあげないの?

(自分の)安心を求めてたら
(自分が)安心を得るのは結構難しいかも。

でも
何かワクワクすることにチャレンジしていたら
最低限なんかじゃ満足できないわけで
就職なんてできて当然でしょう。
その先に本当に欲しいことがあるんですから
安心を突き抜けちゃう。

そういうことなんですよ。

でもまぁ、こういうのって「振り子」みたいなもので
そのうち逆側に振れる時期が来るのでしょうけどね。

それを待ってるわけにもいかないな
とね。