考える方向を手に入れるということ

何をやるにしてもゴールやビジョンありき
これ、とても重要なことです。

例えば、クルマを作りたいと思わなければ、クルマは作れません。

クルマを構成するのは、多種多様な部品で、それらの生産には、材料や、要素技術の知識やノウハウが必要なわけですが、それらを構成する知識を組み立てたらクルマができるわけではない。
小さいものを寄せ集めたら、製品が形になるわけではないということです。

向上の組み立て工程などを想像すると、あたかもそうやって小さいものから形になっていくように思ってしまいがちですが、企画とか開発とかの段階では、全く逆です。

何度も同じようなことを言ってますが、知識や技術は重要です。それらは絶対に欠かせません。

知識や技術は
「こんなことができたらなぁ」
から生まれてくること

つまり
「こんなクルマを作りたいなぁ」
という思いがあって
その上で
「こんなことができたらなぁ」
というニーズから個別の技術が生まれてくるのであって
個別の知識や技術や材料を使うためにクルマを形にするわけではありません。

さらに言うなら
そのクルマですら
こんな生活がしたいなぁ
などというビジョンから生まれてくるもの
と言っても良いかもしれません。

最終的にどうしたいかというビジョン無しで
要素から構成していって
「こうなっちゃった」
というものづくりはあり得ません。

ビジョンとは、我々が何を目指しているのか、どのような結果を望んでいるのかを明確にするものです。

そしてそれは、ゴールを設定して、到達のために必要なステップを逆算して具体的にイメージするための源泉になります。

ビジョンがあることで、チーム全員が共有する目標や方向性が明確になり、それに向かってどのように進んでいくべきかを理解できるわけで、ビジョンが無ければ、どんなに優れた技術や知識があっても、それらを活用することは難しいでしょう。

ビジョンがあればこそ、チーム全体が一丸となって、その実現に向けて努力できるわけで、単品の知識や技術や要素から積み上げる考え方だとチームワークは必要とされません。
もっともそれでは最終的にビジョンを実現するという方向性ですらないのですけどね。

というわけで、基礎的な学習からの知識の習得は大事ではあるのですが、その方向性で何かを形にしようというのは、色々な意味で無理があると思っています。

やはり実際にものを作って経験しないと、そういった考え方は手に入りません。
理屈だけじゃ腹落ちしないでしょうし、これまでの習慣が邪魔をするはずです。

暗黙知と形式知

何度かネタにしてきた内容ではありますが、AIがかなり実用的になってきたので、改めて思ったことを書いておきましょう。

「あうんの呼吸」なんて言葉がありますね。「暗黙の了解」なんてのもあります。
これらは「言わなくても分かる」ってことです。
加えて、「職人の勘」なんてのもあって、「考えなくても分かる」ってことです。

日本人は、多くが似たような価値観や考え方をしていたり、各人の距離感が近いこともあって、そういうものが醸成されやすいのでしょうね。

これに対して、明文化されていないものに対する嫌悪というか、そういったものを明確化しないと…のような論調があった気がします。
というか、今でもそうかもしれませんが。

確かにそうした方が良いことはあります。
伝えやすいし、情報として残しやすいから。

そうやって伝えられるものを形式知と言います。

でも、なんでもかんでも全て明文化すれば良いかというと、決してそんなことはないぞ、と思うのです。
そもそも、なんでもかんでも明文化は無理です。
文章とか、何かしらのメディアで伝えられることには限界があります。

やるべきことをキッチリ明確化してマニュアルにして、それに従えば、多くはマニュアル以外のことはやらなくなるでしょう。

言われたことをキッチリやれば100点を取れる学校教育なども分かりやすい例で、言われたことや、明確化されたやるべきこと以外はやらない傾向になります。

「言わなくても分かる」「考えなくても分かる」ってのは、その領域に到達するまでに経験が必要で、そういうのは面倒なものなのです。
経験に基づくもので、直感が必要なことなんてのは、大抵はそういうものです。

そういった「やらないとわからないこと」を暗黙知と言います。

でも、往々にして面倒なことって価値があったりするもので、そういうのを「無駄」ということにして排除していくと、味気ないものになっていったりしないでしょうか。
メディアに残して大量配布できる情報であれば、価値は低下するでしょう。

形式知で何とかなるものはAIが得意な領域ですよね。
なので、そういったものはAIを駆使してバリバリやれば良いでしょう。

対して暗黙知が効いてくる領域、これをどうしていくか。
これは今後、大きな課題になってくると思います。
というか、すでにそうなっていますかね。

夢工房でやっていることって暗黙知ベースのことばかり。
形式知ベースの世界にどっぷり浸かってきた学生には、なかなか手強い世界かもしれませんが、そこに価値があるのは明確なのですよ。

やってあげるのは本当に良いのか?

今日も、おかしなAI生成のイラストでスタート。

教育とは、教え育むと書く。
外部から、「教えてあげる」ということですかね。
知識の伝授を「やってあげる」って感じ。

教えてあげる
やってあげる
一見良さそうです。

でも、これが相手にとってどのように働くかは
相手との関係や、状況や内容で決まります。

やってあげれば
相手は受け身で良いわけで

受け身の状態だと
やらなくて済むなら
できなくても良い
みたいになりがちで

自分で考える必要が無くなってしまう。
その状態では、「思い」は発動しないので、何も起きません。
(※言われた問題を解く、みたいのは作業であって、考えるってのとは違いますよ というのを前提にしています)

これはマズイ。非常にマズイ。

「やる」と「やらされる」は
似ているけど全く違う。

そこには内発的な動機がなくてはならない

相手が「できるように」なって欲しいのであれば
やってあげるのは逆効果になる可能性が大きい。

これ、つまり積極的に教えると
学べなくなるってこと。
何と皮肉な。

自ら「やりたい」と思えるようになるのが理想なのだけど
それって、相手の内的な問題なので、どうしたものやら。

と、かなり極端な話をしてしまったけど
恐らくこの点が我が国の教育の問題点なのだと思います。

それに対する答えは簡単には得られないかもしれないけど
でもまぁ、問題が認識できているというのは良いことだよなぁ
なんて思っています。