それは思考停止ではないのか?

最近は
夢や目標が無いとか
自分で決められないとか
そんなケースをよく目にするようになりました。

どうも、リスクがどうのとか
そういうのばかりが原因では無いぞ
と思ったのが今回のお話し。

学校で勉強するということは
知識を得るということ

それは大事なことですよ。
でも、どちらかというと

考えている
というより

覚えている
ですよね。

しかも
指示されたことをやって(やらされて)
その結果を評価される

つまり
やることを決めるのも
現状や結果を評価するのも
自分以外の他人

これが長年に渡って継続され
強化されてきたのが我が国。

いわゆる「勉強ができる」という状態に
なるかもしれないけど

これは
思考停止したまま
暗記しているような
そんな感じなのではないかな。

やることは他人が決めるもの
自分はそれに従うべきで
評価は他人がするもの

それが日常だったら
自分で考えて目標設定するとか
現状に対して「これで良いのか?」と
確認したり疑問を持ったり
そんなことは必要無いわけで…

でも、そうなるのは当然だよなぁ。
と、ふと思った次第。

試験で良い成績を取ることは
誰かさんが設定した共通のゴールであって
点数が唯一の評価指針。

上手に暗記して
正確に吐き出すことを要求されて
それを評価するわけだけど

しかし
果たしてそれは何のためなのか?

学校やら会社やら
次のステップに潜り込むための手段であって
良い仕事をするためではないのは確か。

しかし、学校はともかく
今どきそんな記号的で表面的なものだけで評価して
入れる会社って、そんなに無いとは思いますけどね。
まぁ、入れたとしても続かないでしょうね。

ってなわけで

成績が
学歴が
TOEICが
インターンが…

と、他人が設定したこれらを
忠実に(思考せずに)やればやるほど
深みにはまって
本質を見失っていくのではないかな。

これは面白くないぞ。

でも
「何のため」が必要無い世界では
そんなことを考えることすらタブーなのかも。

こんな推測をしてみたのですが
恐らく、当たらずとも遠からずってところでしょう。

であれば、対策は…

ひっくり返すことですね。
夢工房で実験だ!

そうだ、逆に行こう!

最近は、価値観がやたら均質化していないか
というのが気になるところ。
どうなのでしょう?

ずっと昔から
先生も親も
あーしろ、こーしろ
言う存在で

学生は
文句言いながらやらされてきました。

基本的な構造は
今も昔も変わらない気がしますが

学生達は文句を言わなくなりましたね。

で、先生やら、各種情報やらで得たワードに
多くが飛びつくようになっています。

確実性がありそうなものに乗っかって
楽したいというか、安心したいというか
そんな感じ。

もちろん昔からそういうのはありましたが
なんかこう
合っているとか間違っているとか
ゼロかイチか
みたいな傾向が強くなっている気がします。

そして凄くセンシティブ。

実はこれ
学生に限ったことでは無いな
とも思っていて

多くの人が守りに入っているなぁ
と感じています。
気のせいなら良いのですが。

それでもって
個性的な価値観を持った者が
生きにくい世の中になっている気もします。
これは、単なる趣味とか嗜好とかではなく
本質的な考え方の部分の話ですが。

と、心配しても何も変わりません。
そして我々は評論家でもありません。

夢工房はどうするかというと

そう、逆を行くのです。

それで万事解決…するかどうかは
やってみないと分かりませんけどね。

少なくとも
満足いかない現状に
何かしらの変化を及ぼせますし
やれば何か分かるだろ
ってとこです。

ピースは合体するか

一見関係の無いような
色々な経験を手に入れて

そんなことを続けていくと…

いつかそれらのピースが合体して
形になる

そのような話を聞いたことがありませんか?

事実です。

どんな経験のピースを持っているか
どういう気持ちで何をしているか

そんなことによって
ピースが合体するか否か
そして、それがいつなのかが決まるとは思います。

でも結局は神のみぞ知る
というところでしょうけど。

そういう意味でも
無駄な経験は無いということです。

遭遇したチャンスを素早く掴んで
れらに対して、いちいちそベストを尽くす
そういう姿勢は大事で

それを継続していくと
ピースが合体する小さな機会がやってきたりもするわけで
そういうのって面白いわけですよ。

そういうのが連鎖して続いていく
そんなやり方ができると良いですね。

続けていけば
沢山のピースが合体して
大きな何かができあがる時が来るかもしれません。

細石の巌となりて
(さざれいしのいわおとなりて)

ってところでしょうか。